2018年3月4日日曜日

コリント人への手紙第一1章21節~31節「コリント人への手紙第一(3)~主を誇る者~」


皆様は、三本の矢の教えをご存知でしょうか。戦国の武将毛利元就が残した遺訓として有名で、一本では折れてしまう矢も、三本束ねれば簡単には折れないとして、三人の子どもたちに固く結束して事に当たるよう勧めたと言われるものです。

三人寄れば文殊の知恵ということばもあります。一人一人は知恵足らずでも、三人が心を合わせて考えれば、良い知恵も浮かんでくる。協力すること、一致することの大切さを説いています。

他方、兄弟は他人の始まりとも言われます。本来仲が良いはずの兄弟同士。しかし、お互いに独立し利害関係が生まれると、他人のように争うようになることを指します。また、船頭多くして船山に登るということばもあるでしょう。皆が「俺が、俺が」と船頭気取りで自己主張し、対立しているうちに、とんでもない所に船が進んでしまう。喧嘩、対立がいかに不幸で不毛なものかを、肝に銘じさせることばでした。

それでは、今私たちが読み進めているコリント人への手紙、使徒パウロが書き送ったこの手紙の宛先であるコリント教会は、果たして三本の矢のような教会だったのでしょうか。三人寄れば文殊の知恵、お互いに協力して物事に当たる教会だったのでしょうか。

そうではなかったようです。6年前ヨーロッパへの宣教旅行の途中、心身ともに弱り果てていたパウロが労苦を重ねて建て上げたコリント教会は、同じ神を信じる兄弟同士が争い、仲間割れしていました。アポロ派、ケパ派、パウロ派、キリスト派と4つのグループが、各々思うように教会を動かそうと、まるで4人の船頭が別々の方向に進もうとする船のよう。パウロをして、「あなたがたは、キリストの体である教会を四つに引き裂くつもりですか」と悲鳴を上げさせる程、酷い有様を呈していました。

地の塩、世の光として、コリントの町に良い影響をもたらすべき教会が、却って軽薄で、わがままで、不道徳なコリントの町の風潮に染まっていたらしいのです。

懐かしいコリント教会を去って早や4年。この時、パウロはコリント対岸の町エペソに滞在していました。しかし、エペソの町で伝道に励む使徒の耳に届くのは、仲間割れ、性的不道徳、裕福な者が貧しい者を辱める交わり、礼拝の混乱など、胸を痛める問題ばかりだったのです。

そんな、あるべき教会の姿から落ちてしまったコリント教会のために、この教会の生みの親であるパウロが、筆を執ったのがコリント人への手紙でした。そして、まず取り上げられたのが仲間割れの問題です。仲間割れしないように、一致するように。この勧め、このテーマは、4章の終わりまで続きます。

仲間割れの原因は、コリント教会の人々が自分を誇ること、特に知恵をもって誇ることにあると見抜いたパウロは、「神はこの世の知恵を愚かなものにされた」と語り、人間の知恵の限界を指摘しました。今日はその続きとなります。

 

1:21~23「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、」

 

たとえ、聖書の神を信じない人間であっても、理性とか知識と言った煉瓦を積み重ねてゆけば、神を知り、神に到達することができる。そんなこの世の考え方を、神様は打ち砕いた。そして、宣教のことばの愚かさ、十字架につけられたイエス・キリストを信じる人を救うことを良しとされた。そう、パウロは言うのです。

宗教について学び、知識を積み重ねてゆけば、神を知り、神のようになれる。そう思いあがる人間には、ご自分のことを隠す神様。しかし、自分の罪、限界を認めて、十字架のイエス・キリストを信じる者には救いの恵みを与えるのが、神様だと語るのです。

しかし、その様な神様の思いに、人間たちは気がつくことはありませんでした。しるし、奇跡を求めるユダヤ人にとって、十字架につけられたキリストは躓きでした。知恵を好むギリシャ人にとっては愚かなことでした。長年の活動を通して、十字架のキリストを述べた伝えた時の人々の反応から、パウロは人間の高慢さに、二つのタイプがあることを感じていたようです。ユダヤ人タイプとギリシャ人タイプの二種類でした。

福音書を読みますと、ユダヤ人たちは、イエス様に対し、様々な場面で神としてのしるし、奇跡を執拗に求めています。自分たちが期待するような奇跡が行われるとイエス様に従う。期待に反すると、人々は離れてゆく。その繰り返しでした。

論より証拠、ことばより奇跡。そんなユダヤ人が、十字架につけられたイエス様を見て「こんな惨めな男が救い主のはずはない」と失望。イエス様を罵り、辱めたのは、当然のことだったと思われます。何故なら、木につけられたまま処刑される者は、最低最悪の罪人。神に呪われた者と考えらえていたからです。十字架のキリストは、力強い王様のような救い主を望むユダヤ人にとって、躓き以外の何物でもなかったのです。

証拠より論、他方、知恵を好むギリシャ人は、死ぬはずのない神が死んだとか、最も忌まわしい刑罰として、口にするのも憚られる十字架で死んだ人間を、救い主と信じる等という宗教はナンセンス、愚かの極みとして受け止めていたらしいのです。

美しい表現、事実よりことば。人の心を動かす雄弁や機知に富む会話を好むギリシャ人にとって、十字架の上で肉を裂き、血を流して死んでいったキリストの姿は余りにも残酷で生々しくて、耳にしたくも、口にしたくもない話題だったと言うことでしょう。

しかし、救いに召された私たちにとっては躓きでもなければ、愚かなことでもない。十字架のキリストこそ、神の力、神の知恵ではないのですか。パウロは呼びかけるのです。

 

1:24,25「しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

 

ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、日本人であっても、何人であっても、世界中の人間にとって、イエス様以外に真に人を生かす力もなく、知恵もない。パウロはユダヤ教の律法学者、エリートでした。ギリシャの教養も身に着けていた知識人でした。人間として力も知恵もあったパウロが鼻っ柱を砕かれ、イエス様の恵みを身をもって経験したことばだけに、説得力があります。

信じる者を賢くし、聖くし、正しくする力。罪を除く力。救いを確保する力。イエス様の以外の誰に、このような力があるでしょうか。義を教える知恵、愛を説く知恵。イエス様以上の知恵を持つ人が他にいるでしょうか。私たちも、このパウロのことばに心から共感し、改めてイエス様を信じる者の幸いを確認したいところです。

こうして、イエス様を信じる者の幸いを確認したパウロは、コリント教会の人々に顔を向けると、「あなた方も同じ恵みを受けたのではありませんか」と問いかけたのです。

 

1:26~29「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

 

当時、ギリシャの教会には、会堂管理者クリスポという名のある人物がいました。裁判官デオヌシオとかギリシャの貴婦人たちと言う地位や身分の高い者もいました。しかし、多くのメンバーは無名の市民、職人、奴隷、自由の身となった元奴隷だったと言われます。

ここで、知者をはずかしめるため、強き者をはずかしめるため、財産や地位のある者を無い者のようにするためとされた時、この世にあって尊ばれる知恵や力、財産や地位には、一体何の意味があるのかと、考えさせられます。それらは罪からの救いへと私たちを導くことができないものです。私たちの心を幸いで満たすこともできないし、正しい歩みへと導く力も持っていません。

神様は、それらのものを持っているからという理由で、私たちを救われたのではありません。ただ、恵みによって救われたのです。それなのに、人間は自分の知恵や力、財産や地位を誇って、神がいなくても大丈夫と驕り高ぶっている。その驕り、その高慢を戒めるために、神様はあなたたちの様な愚かな者、弱い者、取りに足りない者を救われたのです。パウロは念を押しています。

「神の御前でだれをも誇らせないため」と聞いて、思い出すのはアイザック・ニュートンのことです。近代科学の父と言われるニュートンは、世界は神様によって創造されたこと、神様のみ手によって動かされ、守られていることを信じていました。

「私はすべすべした小石や小さな貝殻のような真理を見つけては、子供のように夢中になってきた。けれど、私の目の前には依然として神の真理と言う大きな海が発見されずに横たわっている。」晩年のことばです。真の知者は神様の前で誇らない。神様の真理を知りえたことを感謝しながら、自分が発見したことは、神様の真理のほんの一部に過ぎないとへりくだる。私たちもこうありたいと願う生き方がここにあると思います。

さて、とは言えです。神様の前では何も誇るべきものを持たない人間、罪の塊のような人間も、「キリストのうちにある」ことによって、驚くべき祝福に包まれるのです。

 

1:30,31「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書いてあるとおりになるためです。」

「神によってキリスト・イエスのうちにある」とある通り、コリント教会の人々は、神様によってイエス・キリストと一体とされました。イエス様を信じた時、私たちはイエス様と一つ、一体とされた。パウロが繰り返し語る、大切な教えです。

イエス様と一体とされた私たちは、イエス様から神の知恵を教えてもらえます。イエス様の義を頂いて、義、罪のない者と認められました。イエス様によって、愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実など、徐々に新しい、きよい生き方ができるようになりました。最後には、この地上の体も、イエス様によって完全な体に変えられて復活します。これが贖いです。

神の知恵、義、聖め、贖い。イエス様は、私たちが神様から受け取るべき祝福のすべてを、私たちに与えてくださるのです。それらを私たちの生涯にわたって、日々与え続けてくださるのです。ですから、コリント教会の人々に対して、パウロは「誇る者は主を誇れ」と命じました。これは、旧約エレミヤ書のことばからの引用です。今日の聖句です。

 

エレミヤ9:23,24「【主】はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──【主】の御告げ──」

 

コリント教会の仲間割れの原因は、自分の知恵、能力、富を誇るところにあると考えていたのでしょう。それらを誇らず、それらの賜物を与えてくださった主を誇れと、パウロは彼らに勧めたのです。

彼らは自分の知恵をもって人を責め、能力を誇って人を裁き、富をもって貧しき人をはずかしめていました。神様が与えてくださった賜物を悪用して、自らを誇り、人の上に立とうとする。互いに亜争い、対立する。まるで神様を知らない人のような生き方をしていたのです。その様な人々に、パウロは主を誇れと命じました。

それでは、主を誇るとはどういうことでしょうか。ひとつは、知恵や能力、富などを、イエス様が十字架の苦しみを通して与えてくださった賜物と考えること、受け取ることです。本当なら、受け取る資格のない者が贈り物を受けたわけですから、心から感謝して受け取ることです。

二つ目は、与えられた賜物を、イエス様がそうされたように、自分を喜ばせるためではなく人を喜ばせるため、自分を誇るためではなく人に仕えるために用いることです。教会を建て上げるため、この社会を良くするために活用することなのです。

果たして、私たちは、イエス様が尊い血潮をもって贖い、与えてくださった賜物を、どう用いてきたでしょうか。イエス様がどれほどの犠牲を払って、その賜物を与えてくださったか、考えてきたでしょうか。今自分はどんな賜物を与えられているのか。それを誰のために、何のために、どう用いることが、イエス様の思いにこたえることになるのか。私たち皆で、主を誇る者としての歩み進めてゆきたいと思います。

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