2018年2月25日日曜日

ヨハネの手紙第一4章9節~11節「信仰の仲間と生きる喜び」


皆様、今朝のウェルカム礼拝のお話のテーマは、「信仰の仲間と生きる喜び」です。とても内向きな題名で恐縮なのですが、話の内容は「教会というところはどういうところなのか。そして教会の中で人々が交わるということはどういうことなのか。」ということです。皆さんの中には、ご自分はクリスチャンではないけれど、ご家族や友人がクリスチャンで、それでそれらの方々に誘われて教会にいらっしゃった、という方がほとんどかもしれません。その誘ってくださった方が、毎週通っている教会というところはいったいどういうところなのか、そしてそこで何をしているのか、という視点で話を聞いていただければ幸いです。

 それではまず、「教会というところはどういうところなのか」ということについてお話をします。教会といいますと、よく教会の建物のこと、つまり教会堂のことを考え勝ちです。しかし教会というのは、本来はそこに集まっている人々の群れを指します。この教会に集まっている信徒の皆様が教会ですし、世界中のクリスチャンの群れを指して教会と言います。

 ではその教会というのは、どういうところなのか。そのことについて先ほど読んでいただいた聖書のみことばで確認します。411節「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」と書かれています。これはヨハネという人からキリスト信者に宛てられた手紙のことばですが、「愛する者」ということばはもともとは「愛されている者」という言い方になっています。教会、すなわちキリストを信じる者たちの群れは、神に愛されている者たちなのだということです。

 さてでは、神に愛されているとはいったいどういうことでしょうか。そのことについて教えているのが9節「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」ここに出てきます「ひとり子」というのは、神様のひとり子のイエス・キリストのことです。「世に遣わし」というのは、神のひとり子を人間としてこの世界に送り込んでくださったということです。乙女マリヤによって赤ん坊としてひとり子をこの世に送ってくださいました。クリスマスというのは、そのことを記念する日です。神様は天と地を造られた創造主ですが、その神様が地上に被造物のかたちをとって来られたということです。ここに神の愛が示されていると、ヨハネは言います。

 では、キリストが人間となって地上に送られてきたことが、どうして神の愛が示されたことになるのでしょうか。10節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」キリストが地上に来られた理由や使命です。「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子」、これが神様がキリストを遣わされた理由でした。ここに「私たちの罪」という言葉が書かれています。実は私が若いときに最初に教会に行ってから、聖書の話で何が分からなかったかと言いますと、この罪人ということでした。キリストが私たちの罪のために身代わりになって十字架上で裁かれたと言われましても、どうして特に悪いことをしていない私に罪があり、なおかつキリストがその身代わりに裁かれる必要があるのかと、内心イライラしながら説教を聞いていたものです。

 けれどもやがて、自分が罪人であるということに徐々に目が開かれていって、その罪のためにキリストが十字架にかかって死なれたことを受け入れ、洗礼を受けることになりました。今は罪ということを、次のように捉えています。それは罪とは、自己中心の心だということです。よく「○○ファースト」という言い方がされますが、罪とは「自分ファースト」であるということです。よく言われることに、罪と言う言葉の英語はSINなのですが、そのスペルの真ん中に「I」つまり「私」がある。罪とは私が中心である、と言うわけです。

 自分中心になる結果どういうことが起こるのかと言いますと、もし自分の都合が悪い人が目の前に存在しますと、そんな人はいなければいいと思うものです。そして、その人の存在そのものを憎んでしまいます。その「憎しみ」ということについて、聖書は「兄弟を憎む者は、人殺しです。」と教えています。実際に誰かの心臓を止めるような殺人をしなくても、憎しみという思いは人殺しと同じ罪なのだというのです。なぜならば、人を実際に殺す時というのは、目の前にいる人の存在が邪魔だから、その存在を抹殺するためにその人を殺してしまうわけです。そして心の中で憎むことは、まさにその殺人と何も変わらない心の在り方なのだというのです。

 また自分がトップであると思うことは、他人がすべて自分よりも下にいる、自分よりも劣っている人間であると思うことになります。そうしますといろいろな理由をつけて、他人を蔑んで馬鹿にします。この人を馬鹿にすることについて聖書は、「兄弟を馬鹿にする者は、燃えるゲヘナに投げ込まれる。」と教えています。私は今まで一体、燃える地獄に投げ込まれてしまうような蔑みの思いを、何百回持ったことかと思わされています。

 さてしかし、聖書でどんなにそんなことを言われましても、私たちは次のように思わないでしょうか。「確かにそうかもしれない。けれども自分は人を憎んだからといって、それをそのまま口にしたり態度で表すことはしない。だから私が憎んだ相手は、何の傷もついていない。また確かに心の中で馬鹿にすることはあるけれども、決してそのことは口にはしないどころか、むしろその相手とうまく付き合っている。一体そのどこが、罪人だというのだろうか。」とです。

 けれども罪というのは、他人が自分をどう見るのかということとか、また自分で自分をどう思うのかということとかには、関係ありません。罪とは、自分中心、自分がトップであると思う、その心の状態のことなのです。腐った肉が悪臭を放つように、自分中心の罪の心が、憎しみや蔑みという悪臭を放出してしまうのです。そしてその心は、他人には見えませんし、自分でもごまかすことができます。しかし心の底の底をご覧になられる神様の御目には、その心のすべてが見られています。そしてその神様が、私たちが憎んだり蔑んだりする心に対して、燃える地獄に投げ込むというほどに怒っておらけるということを、実は人間はほとんど無感覚になっています。

 しかしです。しかしでは、神様はその激しい裁きを人間に下されるのかと言いますと、そうではありません。10節にありますように、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わ」してくださったのです。つまり、私たちを裁く代わりに、イエス・キリストを身代わりに裁くことで、ご自分をなだめられたというのです。そして、「ここに愛があるのです。」と説明されています。キリストの十字架に神の愛があるのだ、とです。ここで書かれています愛とは、どんな愛でしょうか。それは、他者のために自分のいのちを犠牲にするという愛です。他者中心の愛です。

 「主」という言葉をローマ字で書くとSYUとなり、真ん中にYがあります。YYOUの頭文字。つまり、YOUが中心であるということに通じます。主なる神様は、自分中心の正反対の、あなた中心のお方であるということ。ですから、あなたを裁かずにひとり子を裁いて、あなたを救ってくださったということ。これが神の愛です。また、教会という言葉をローマ字で書いても、KKの間にYOU、つまりあなたという言葉があり、教会もあなた中心の場であるということを現わしていることになるのです。

 9節「その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。」。この「いのち」とは、神のいのちのことです。神のいのちとは、「あなた中心」といういのち。あなたのために、わたしのいのちをささげますといういのちです。罪人である私たちの持っているいのちは、自己中心といういのちです。そのいのちは人を蔑み、人を殺すことしかできないいのちです。そんな恐ろしいいのちを持っている私たちのために、神様はイエス・キリストを十字架につけて、他者中心といういのちを得ることができるようにしてくださったとのです。キリストを信じて救われるということは、この神様のいのちであります、他者中心といういのちをいただくことでもあるということです。

 ではそんな恵みをいただいた教会は、つまり信仰者は、どのように生きなさいと教えられているのでしようか。それが11節後半です。「私たちもまた互いに愛し合うべきです。」これが信仰者通同志の交わりの在り方です。信仰者たちは他者中心という愛をもって、交わりなさいということです。人間はもともと、自分中心のいのちしかもっていません。ですからそのままですと、他人をさげすんだり憎んだりして、いつも戦闘状態のままでしか他人と交わることができないのです。常に相手は自分を認めるのか、自分を尊敬するのか、自分のために何をしてくれるのか、自分を愛するのか。そういう風に他人を見て、そして他人にそれらを強要しているのです。言わば、それは他人から自分が欲するものを奪おうとする愛です。そして相手からそれをもらうことができないと、その相手に心を閉ざしてしまうのです。しかし神様のいのちをいただいてからは、いつも相手をどのように支えようか、どのように補おうか、どのように励まそうか、どのように愛そうかという生き方、交わり方を可能にしていくのです。その愛は奪う愛の反対の、与える愛です。相手の望むことを与えようとする愛です。

 聖書で教会のことを、「キリストのからだ」とも表現しています。キリストが頭で、信仰者はそのからだだと。そしてからだは一つですが、からだの器官は数多くあって、信仰者一人一人がその器官であると教えています。このたとえは、他者中心の交わりの在り方というものを、とても分かり易く教えています。と言うのは、たとえば目は、目以外のすべての体の部分のために働きますが、目そのもののためには存在していません。またたとえば、右手は体中をさわることができたとしても、しかし右手がどんなにかゆくても、右手はその右手を掻くことができません。そのようにからだの各器官というものが、他者中心の働きをするように構成されているということが分かります。人にはそれぞれ、賜物が与えられています。ほかの人ができないことを、ある人は平気でできます。けれども逆にその同じ人が、他の人が平気でできることをほとんど何もできないということがあります。なぜなら、一人一人がからだの各器官だからです。目や耳や口や手や足の人は、できることとできないことがあるのです。ですから自分のできることで他者に仕える、そのような他者中心のいのちで交わりなさいということです。

 以上が、教会についての一つの説明です。そしてこの教会、つまりキリストを信じる者たちに与えられているいのちは、単に日曜日に礼拝に集まった人たちの間だけで用いられるものではないということも、覚えたいと思います。そのいのちは、家庭や学校や職場や地域で、発揮されていくべきものです。

 たとえば、夫婦関係で大事なことは、夫の妻に対するいたわりの思いと、妻の夫への尊敬の念であると言われます。他者中心のいのちで生きるとき、夫はいつも妻をいたわろうとし、そして妻はいつも、夫に尊敬の念を伝えようとします。これとは逆に、夫が妻に尊敬するように迫り、妻が夫にいたわりを迫ったりしたら、次第に夫婦関係にひびがはいっていきます。人間の悩みは90%以上が人間関係だと言われています。その原因は、自分中心、自分がトップという、罪のいのちのなせる業なのです。相手が変われば自分も相手に良くすると思うものですが、そもそも相手を変わらせようと思うこと自体、自分が中心である思い以外の何物でもありません。他者中心のいのちは、相手を変えようとするのではなくて、自分が相手のために変わろうとするいのちです。神様のひとり子のイエス様は、「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にし、仕える者の姿をとり人間と同じようになられたのです。」と、ピリピ2:6-7に書かれています。これが、神様のいのちです。神様の愛とは、これほどまでにご自身を変えてでも、人間のために手をさしのべてくださるものなのです。

 私たちは罪人ですから、キリストから離れた途端に自己中心のいのちに戻ってしまいます。木の枝につながっている果実のように、いつもキリストにつながって他者中心のいのちで生きていくことです。つまり、自分はキリストの十字架を信じているので、他者中心に生きるという神のいのちをいただいているのだと、信じ続けながら生きていくことなのです。毎週の礼拝におきまして、いつのまにかキリストから離れていて、自己中心のいのちをもって生きてしまっていたということに気づかされては、悔い改めていきたいと思います。間違っても自分の古いいのちである自己中心のいのちを、何とか改良しようなどとは決して思わないことです。生まれながら持っている自己中心の心は、煮ても焼いても他者中心の心にはなりようがありません。他者中心のいのちは、神様からだけいただくものです。それをいただく方法は、ただ一つだけです。イエス様の十字架を信じること以外に方法はありません。まだ洗礼を受けておられない方々には、是非ともこの神様のいのちを得させてくださる十字架のキリストに現わされています神様の愛を受け取っていただきたいと願います。そして自己中心のいのちが、他者中心のいのちに変えられる人生があることを、体験していただきたいと思います。

 最後に今日の聖句を皆様とご一緒にお読みして、終わりたいと思います。「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイの福音書20:28)

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