2018年2月18日日曜日

ルカの福音書24章44節~53節「一書説教 ルルカの福音書~証人として~」


六十六巻からなる聖書。そのうち一つの書を丸ごと扱い説教する一書説教。アドベント・クリスマス、年末年始を経て、今日は久しぶりの取り組みとなります。通算四十二回目、新約篇三回目の一書説教となります。

 新約聖書の冒頭四つは、その名も「良き知らせの書」「福音書」と呼ばれるもので、主イエスの活動を記したものとなります。旧約聖書にて、繰り返し告げられた救い主の到来。その約束を真正面に受けて、約束の救い主が来たと告げる福音書。特に最初の三つの福音書は、「共観福音書」と呼ばれ、同じ場面、同じ出来事が記録されます。マタイ、マルコ、ルカと読み進めた人が、何回も同じことが記されていると感じたら、それで良いのです。

とはいえ、同じ場面、同じ出来事の記事でも、完全に同じというわけではありません。それぞれの著者の視点、著者の意図に従って記録されています。「群盲象を評す」と呼ばれる寓話があります。目の見えない方が象を触る。足を触った人は柱のようだと言い、鼻を触った人は木の枝のようだと言い、腹を触った人は壁のようだと言う話。象という巨大なものを説明するのに、それぞれ異なる視点がある。そうだとすれば、イエス・キリストを紹介するのに、複数の視点があるのは当然と言えるでしょうか。

今日はルカの福音書に取り組みます。著者ルカの視点、ルカの意図を考え、味わいながら読み進めることが出来れば幸いです。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 第三の福音書、その著者ルカ、おそらくはアンテオケ出身の人物と考えられます。使徒の働きからすると、パウロの伝道旅行に度々同行していることが分かります。パウロの手紙では、「医者ルカ」(コロサイ4章14節)と紹介されています。その知性の高さは記された内容に存分に表れていて、「歴史家」とも「神学者」とも「ジャーナリスト」「文豪」とも目されます。

マタイの福音書はユダヤ人向けと言われるのに対し、ルカの福音書は異邦人向け。旧約聖書に馴染みのない、私たちにとっても、読みやすい福音書と言って良いでしょうか。朴訥としたマルコの福音書に対して、流暢なルカの福音書。極めて美しいと言われるルカの言葉は、「ルカの福音書」と「使徒の働き」があり、この二つを合わせると新約聖書中最も長い著作となる。

聖書はどの書も神の言葉。そのため、それぞれの書に優劣はなく、どれも重要な書ですが、その上で、ルカの福音書は実に多くの人に愛された書、重要な書と言えます。

 

 書物として第一級の作品と言われるルカの福音書。その書き出しは立派な序文となります。

 ルカ1章1節~4節

私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。

 

 短くまとめられた序文ですが、多くの情報が込められています。当時、多くの人がキリストの生涯について書き上げようと取り組んでいたこと。ルカ自身も、綿密に調べ上げ、順序立ててこの書を記したこと。この書はテオピロという人に献呈されたこと。(聖書六十六巻のうち、手紙以外で、個人宛に記されたのはルカの文書だけで、非常に稀なことと言えます。)

このテオピロがどのような人物なのか、多くのことは分かりません。名前の意味は、「神に愛された者」あるいは「神を愛する者」。ルカの言葉遣いから、社会的に身分の高い人であること。「すでに教えを受けられた」と言われているので、洗礼を受けて間もないキリスト者か、あるいはキリスト教に好意的な求道者であったと思われます。

ルカは、このテオピロが「すでに教えを受けた」事がらについて、正確な事実であると確信して欲しいという意図のもと、この書を書きました。主イエスについて正確なことを知って欲しい。イエスを救い主として信じてもらいたい。信仰を強めてもらいたい。このルカの願いは、第一義的には、テオピロに対してのもの。しかし当時本を献呈するというのは出版すること、多くの人に見てもらいたいという意図がありましたので、全ての読者への願いと言うことも出来ます。全ての読者が、イエスを救い主と信じるように。全ての読者の信仰が強まるように。このルカの意図に沿って私たちもルカの福音書を読むことが出来るようにと願うところです。

 

 中身の概観ですが、時系列には記されていなく、活動の場所でまとめられているように読めます。誕生・幼少記の出来事(1章~3章)から始まり、ガリラヤでの活動(4章~9章)、ガリラヤからエルサレムへ向かう(9章~19章)、エルサレムでの活動(19章~21章)、十字架と復活の記録(22章~24章)と展開します。

実際のイエス様は、ガリラヤとエルサレムを何度も行き来していますが、ルカはガリラヤからエルサレムへ、十字架へ向けて伝道旅行をしているような姿としてイエス様を記しています。強いて言えば伝道旅行記の印象。十字架での贖いの死と復活こそ、イエス様の活動のゴールであることを示すまとめ方でしょうか。

 

 マタイの福音書は、イエス様の説教が多く記されている書。説教者としてのイエス様の姿が印象的です。マルコの福音書はイエス様の行った奇跡が多く記された書。活動家としてのイエス様の姿に焦点が当たっている。

それでは、ルカの福音書はどうかと言えば、説教の場面も、奇跡を行っている場面も、どちらもあります。ガリラヤでも、ガリラヤからエルサレムへ向かい途上でも、エルサレムについてからも。それぞれの場所で、説教の姿も、奇跡を行う姿もある。今回、この説教の準備で何度もルカの福音書を読みまして、マタイでは説教者、マルコでは活動家のように、ルカに記されたイエス様らしい姿といえば「これ」、という言葉を見つけたかったのですが、私自身は見つけることが出来ませんでした。皆様、是非ともルカの福音書を読んで頂いて、ルカに記されたイエス様と言えば「これ」、という言葉を見つけて、教えて頂きたいと思います。

 

 イエス様の姿で、これと言った特徴を挙げづらいルカの福音書。しかし、福音書としての特徴はいくつも挙げることが出来ます。今日は二つの特徴を確認します。

 特徴の一つは、「賛美・祈り」に焦点が当てられていること。

 ルカの福音書の冒頭、キリストの誕生にまつわる記事において、同時にいくつもの賛美が記されます。最初の歌い手は、母マリヤ。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なら神を喜びたたえます。」(1章46節から)で始まるマニフィカート。二番手は、バプテスマのヨハネの父、ザカリヤ。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主は、その民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」(1章68節から)で始まるベネディクトス。三番手は御使いの軍勢。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(2章14節)と歌われるグローリヤ。四番手は、幼子イエスを腕に抱き賛美を歌ったシメオン。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」(2章29節から)で始まるヌンク・ディミティス。賛美、賛美、賛美、賛美。四つの賛美で、キリストの誕生を彩るルカ。救い主誕生がいかに喜ばしいことか。情熱的なルカの筆を思わせます。

 ルカの福音書の末尾はどうなっているかと言えば、「彼ら(弟子たち)は、非常に喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」(ルカ24章52節、53節)として、弟子たちの賛美の姿で閉じられます。最初に賛美、最後に賛美。賛美で包むように記されたルカの福音書。

 

 また「祈り」にも独特の焦点が当てられます。「諦めないで、祈り続けることを教えるイエス様のたとえ話と言えば何か」と問われたら、皆様はどのたとえを思い浮かべるでしょうか。有名な二つのたとえがあり、一つは「真夜中の友人」のたとえ(11章5節から8節)。もう一つは「不正な裁判官」のたとえ(18章1節から8節)。どちらも、一読して「これは何だ」と首を傾げたくなるたとえ。天の父を、寝ぼけ眼の友人や不正な裁判官に見立てて、祈り抜けと言われる。イエス様以外の人が語ったら、不遜と思われるような話ですが、このたとえが記されているのはルカの福音書だけです。

 また、パリサイ人と取税人の祈りと呼ばれるたとえ(18章9節から14節)も有名です。宮で胸を張り、自分の正しさを訴えたパリサイ人。片や、宮から遠く離れて、自分の胸を打ちながら悔い改めた取税人。義とされたのは取税人であったというたとえ話。救済論にまでつながる祈りについてのたとえ話は、これもルカの福音書だけのものです。

 他の福音書には記録されていない、賛美(賛美も祈りですが)や、祈りについての教えを多く記すルカ。ルカの福音書は、賛美の福音書、祈りの福音書と言えるでしょうか。

 

 今日確認したいもう一つの特徴は、当時のユダヤ人の社会で「嫌われている人」「見下げられている人」に焦点が当てられていることが多いということ。

 イエス様は多くのたとえ話を語られましたが、中でも極めて有名なものの一つに、「良きサマリヤ人のたとえ」(10章30節から)があります。律法学者とのやりとりの結果、「神を愛し、隣人を愛する」ことが大事であると確認したところ、律法学者が「では、私の隣人とは誰か。」との問いをきっかけに語られます。ある人が強盗に襲われる。祭司やレビ人が助けない状況で、ユダヤ人が毛嫌いしていたサマリヤ人が、その者を助けたという話。当時のユダヤ人の社会で、徹底的に嫌われている人こそ、正しいことをしたという内容で、質問をしてきた律法学者に対する強い皮肉にもなっています。このたとえが記されているのは、ルカの福音書だけでした。

 

 もう一つ、非常に有名なたとえ話に「放蕩息子」(15章11節から)があります。遺産を受け取り、父のもとを離れた弟息子が、湯水のようにお金を使い、お金がなくなってからは豚の世話する仕事につき、遂には豚のえさを食べたいと思う状態になった。豚は汚れた動物とされていたユダヤの社会において、このように身を持ち崩す様は、これ以上無いほど最低なこと。これはイエス様の創作ですが、当時の社会では、これ以上無いほど、見下げられるような状態として、弟息子を描いたということです。この弟息子が父のもとに帰ると大歓迎を受ける。品行方正と思われた兄息子は、父が弟息子を大歓迎したことに腹を立てたという話。このたとえ話も、ルカの福音書だけに記されたものです。

(正確なことは分かりませんが、イエス様の語られたたとえ話で、最も有名なものを二つ選ぶとしたら、おそらく良きサマリヤ人と放蕩息子の二つになるのではないかと思います。この二つとも、ルカの福音書だけに記されたものでした。)

 

 当時の社会で嫌われていた人と言えば、取税人がいます。支配国であるローマに払う税金を取り立てる人。それも水増しして、多く取った分は自分の給料とする。売国奴、公の泥棒と呼ばれ、裁判においては証言能力無しとされる程、人格を否定された取税人。その取税人のかしらであるザアカイが、主イエスに出会う場面(19章1節から)があります。取税人と交わることなどありえないとされている状況で、イエス様は非難を受けてでもザアカイの家に泊まることを選ばれる。非難されてでも、自分とともにいたいと言う救い主に触れて、ザアカイの人生が大きく変わる。美しく麗しい場面。非常に有名で、多くの人に愛されたこのエピソードが記されているのは、ルカの福音書だけです。

 

 またキリストの十字架の場面。主イエスを中央にして、両隣に犯罪人が磔にされました。このうち一人が、自分のした悪を認めつつ、イエス様に願い出る。それに答える有名な場面があります。

 ルカ23章42節~43節

そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』

 

 磔にされ、あとは死ぬだけ。この処刑が当然と思える人生を送ってきた。これから、真っ当に生きることも出来ない。本当にこれで終わりという状況で、それでもイエスを救い主と信じる者に、どのような恵みが注がれるのか教えてくれる極めて重要な記録。

 ユダヤ人からすれば、木に吊るされて死ぬというのは、神様に呪われた証拠でした。犯罪人として、神に呪われて死ぬ。これ以上ない、どうしようもない人生を送った男が、しかしキリストによって救われる。この十字架上のイエス様と犯罪人のやりとりの記録も、ルカの福音書だけです。

 他にもいくつも例を挙げられますが、このようにルカは「嫌われていた人」「見下げられていた人」に焦点を当てています。ルカの福音書は弱き者の福音書と言えるでしょうか。

 

以上、二つの特徴、「賛美・祈り」に焦点が当てられていること。「嫌われていた人」「見下げられていた人」に焦点が当てられていることを確認しました。実際、その通りであるか確認して頂きたいと思いますし、自分で読んでみて、どのような印象となるか。ルカの福音書の特徴とは何か、考えながら読んで頂きたいと思います。

 最後にルカの福音書の末尾を確認して一書説教を閉じたいと思います。

 ルカ24章44節~53節

さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。』それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。

 

 この福音書の冒頭で、ルカは、これから記す内容が、正確なことであると受け止めて欲しいと記しました。それ以降、主イエスの生涯を記し、最後にイエス様の言葉と弟子たちの賛美の姿で閉じていきます。最後にイエス様が言われたことは何でしょうか。これまで、イエス様について記されたことは、旧約聖書の成就である。神様が約束したことが実現した、ということです。

 つまりルカは、これから記すことは、間違いなく本当に起こったことと受け止めて欲しいと冒頭で願いましたが、最後はイエス様の言葉を通して、これらのことが実際に起ったというだけではなく、聖書の約束通りのことが実現したと受け止めるようにと言っているのです。そして、そのように信じる者は、「キリストの証人」として生きると言われています。

 

これにてルカの福音書の一書説教は終わりです。この福音書に記されたイエス様は、どのような姿なのか。この福音書の特徴はどのようなものなのか。考えながら、喜びつつ、楽しみつつ、胸を躍らせながらルカの福音書を読んで頂きたいと思います。しかし、読んで知識が増えて終わりということのないように。これらは正確な事実であり、神様の約束の成就であり、それを信じる私は「キリストの証人」として生きる使命が与えられていると確信する読み手となるように。私たちの心も開かれて、聖書を悟ることが出来るように祈りつつ、皆で聖書にあたりたいと思います。

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