2018年2月11日日曜日

コリント人への手紙第一1章10節~20節「コリント人への手紙第一(2)~十字架のことばは~」


私たちは、先週からコリント人への手紙第一を読み始めました。新約聖書は全27巻。その内21巻が手紙、書簡で占められています。そして、その手紙の内、半分以上の13巻を書き送ったのが使徒パウロで、中でもコリント人への手紙第一は最長の手紙でした。

宛先は、各地にある教会宛もあれば、同労者や親しい友など個人宛てのものもあります。内容も多岐にわたり、キリスト教の基本的教理を教える手紙、間違った教えに惑わされている人々に正しい教えを説く手紙。親しい教会への喜びの手紙もあれば、気落ちしている同労者を励ます手紙もありました。たった一人の奴隷のために筆を執った手紙もあるのです。

それでは、このコリント人への手紙第一は、どの様な手紙と言えるでしょうか。様々な言い方ができると思いますが、あえて一言で言えば、悲しみの手紙と言えるでしょう。

コリント教会は、第二回伝道旅行でヨーロッパに渡ったパウロが建てた教会です。初めて足を踏み入れたヨーロッパの地で、パウロは、人々の生活が圧倒的な異教の影響のもとにあることを経験しました。キリスト教に無関心で、冷淡な人々に取り囲まれました。各地で、ユダヤ人の迫害に苦しめられもしました。それらに加え、長旅の疲れや孤独の寂しさも重なったのでしょうか。コリントに来た時、「私は弱りはて、心は恐れおののいていた」と、自らの心境を告白した言葉が聖書に残っています。

しかし、その様な中、アクラとプリスキラと言う協力者を与えられ、二名の同労者が加わり、ともに宣教することができました。さらに、神様の励ましを受けたパウロは、一年半の間、巨大都市コリントに腰を据えて、無事教会を建て上げたのです。

しかし、それから4年。再び伝道旅行に出たパウロが、海を隔ててコリントの対岸にあるエペソ、今のトルコの町で宣教していた際、コリント教会について非常に残念な知らせが届いたのです。仲間割れ、性的不道徳、愛なき交わり、賜物の乱用、イエス・キリストの復活を疑う人々の存在。どれも、パウロの心を痛ませる問題ばかりでした。

パウロが最も弱さを覚えていた時期に、労苦を重ね建て上げた教会。そのコリント教会が、教会として立てるべき証しを立てることができず、かえって、偶像と不道徳の町コリントの悪しき風潮に影響された。教会としてあるべきところから落ちてしまっている。コリント教会の生みの親であるパウロは、悲しい知らせを耳にしなければならなかったのです。

しかし、親が子を見捨てることができないように、パウロもまた自らが生んだ教会を見捨てることはできませんでした。コリント教会を正しい道に導くために、苦心と配慮を重ねて書き送ったのが、この手紙だったのです。もし、私たちがパウロの立場にいたら、どの様な手紙を書くのか。愛する兄弟姉妹が、クリスチャンとして進むべき道からそれていたとしたら、何と呼びかけるのか。どう語りかけるのか。その様なことを想像しながら、読み進めてゆきたいと思います。

 

1:10~12「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。」

 

先ず、パウロが取り上げたのは、仲間割れの問題です。仲間割れをしないように、むしろ一致するように。このテーマは、この後4章まで続いてゆきます。

ところで、驚かされるのは、ここでパウロが「兄弟たち」と呼びかけ、「主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。」と語りかけていることです。

一つ教会の中で、「私はパウロにつく。私はアポロに。私はケパに。私はキリストにつく。」とお互いに争い、割れていたコリント教会。「何だ。キリスト教会と言っても、仲間割れか。愛の宗教と言いながら、争い合う始末か。それじゃあ、この世の人間の集まりと何にも変わらない。」そんな、町の人々の声が聞こえてきそうで、私たちも残念無念です。

私たちでさえ、そうなのですから、教会の生みの親、パウロの心痛は、どれ程深くあったでしょう。それなのに、パウロときたら、彼らに「親愛な兄弟たち」と呼びかけ、「お願いします」と語りかけました。「キリストの使徒として、あなた方に命じる。」そう厳しい調子で書いてもよかったはずなのに、あくまでも同じ神を信じ、同じくイエス様に救われた兄弟の一人として接しています。命令ではなく、お願いとして自分の思いを伝えたのです。

例え、相手に非があり、欠点があったとしても、どこまでも同等、対等な立場で手をさしだしてゆく。そんなパウロの謙遜な態度に、私たち教えられるところです

それにしても、コリント教会の仲間割れ、派閥争いは、一体どうした事でしょう。当時、経済的な繁栄を謳歌したコリント人の気質は、一般的に気ままで、わがまま。深く物事を考えない軽薄な風潮があったと言われます。主義主張よりも人気に左右される。善悪よりも好き嫌いで、人々は行動したと言われます。

そんな風潮に影響されたのでしょうか。皆が皆、イエス・キリストを信じる者であるのに、いつしか、パウロ派、アポロ派、ケパ派、キリスト派と別れて争う。しかも、知恵を誇るコリント人らしく、いかにも尤もらしい理屈をこねて、競い合っていたらしいのです。

この内、「私はパウロにつく」と言う人々は、コリント教会の生みの親、創設者であるパウロを尊敬し、慕う者たち。「私はアポロに」と言う人々は、パウロの後にコリント教会で奉仕したアポロの雄弁な説教を好む者たち。「私はケパに」と言った人々は、イエス様と行動を共にした12使徒のリーダー、エルサレム教会の大黒柱、使徒ペテロの権威を重んじる者たちを、各々指していたと思われます。

パウロにしても、アポロにしても、ペテロにしても、それぞれ魅力ある人物です。そのうち誰を好むのかと言うことは、一人一人の自由でしょう。パウロを親しく感じる人、アポロを好む人。ぺテロに憧れる人。そういう人々がいても良いと思うのです。しかし、それが仲間割れに発展し、争い、対立となると、事は別です。

さらに、この3グループに対して、もう一つ。「私はキリストにつく」と言うグループがありました。「私はキリストにつく」と言うのですから、一見、正しいことを言っている人々と見えます。しかし、その実態はと言うと、「キリストのみに従う」と尤もらしいスローガンを掲げながら、他方、パウロやぺテロの教えを蔑ろにする一団であったと考えられます。

「私はキリストに」と言いながら、キリストご自身が使徒として立てたパウロやぺテロを軽視するとしたら、それは、キリスト派ではなくキリスト軽視派と言わなければなりません。

「パウロ派、アポロ派、ケパ派、キリスト派の皆さん。皆さんは、人を見てキリストを見ていないのではないですか。私たちを罪から救ってくださったのは、パウロでも、アポロでも、ケパでもなく、イエス・キリストであることを忘れていませんか。くれぐれも仲間割れしないように、一致を求める同じ心をもつように、目指すべきは教会の一致であると言う考え、判断に皆が立つように。私は、皆さんと同じ兄弟として、私たち皆の主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いしたいのです。」この様な、パウロの声が響いてくるところです。そして、ここまでよく悲しみを制してきたパウロですが、ついにキリストのことを思うと心押さえきれず、叫び声をあげたのです。

 

1:13~17「キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」

 

イエス様のもと一つ体であるはずの兄弟姉妹が、声を荒げて人を責める。相手の欠点をあげつらって争う。そんな有様に、パウロはいたたまれなかったのです。キリストの体を引き裂いて、四つに分けあうつもりですか。思わず、嘆きの声をあげています。

どうも、コリント教会の指導者の中には、洗礼を施すことによって、自分達のグループの勢力を増すことを計る者がいたらしい。洗礼を授ける人の数を増すことで、優劣を決めようと考える者がいたのではないか。そう推測されてきたところです。

洗礼を定めたイエス様よりも、洗礼の司式者である人間を重視する。神様の恵みと祝福を届けてくださるイエス様を誇るのでなく、有名な~先生に洗礼を授けてもらったことを得意に思う。そんなコリント教会の悪しき風潮に、パウロは釘を刺しました。

「私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。」

かってコリント教会で奉仕した時、パウロは宣教に専念し、洗礼を授けることは他の指導者に任せていたようです。自分の主な使命は「洗礼よりも宣教」と考えていたからでしょう。パウロが洗礼を施した人はクリスポ、ガイオ、ステパナの家族と、思いの他少人数でした。けれども、今はそれで良かったと思っている。いや、神様に感謝しているとさえ、言い放ったのです。

もちろん、だからと言って、パウロが洗礼を軽視したり、無視したりしたことはありません。もともと、洗礼はイエス様の命令、イエス様が定めたものでしたから。パウロの願いはただ一つ。洗礼を使って自分たちの勢力を増し加えようと計るコリント教会の人々を戒めること。彼らが自らを省みて、争いをおさめることだったのです。

そして、宣教を神様から与えられた主な使命としたパウロは、コリント伝道にあたってよくよく考えたことがあった様です。それは、宣教の中心をキリストの十字架に置くこと、キリストの十字架を、ことばの知恵によらずに伝えることでした。

ことばの知恵とは、ギリシャ人が好んだ雄弁、高尚な哲学論議、洗練された会話などを意味します。キリストの十字架と言う話題は、そうした雰囲気の中にあっては、不釣り合いだったことでしょう。当時の人々は十字架を忌まわしいものとし、嫌っていました。「礼儀ある場では、十字架について口にしてはいけない。」と言われ、十字架の話題はマナー違反とされていたのです。

パウロはユダヤ教の律法学者。一流の知識人でもありましたから、ことばの知恵が好まれる社会で、キリストの十字架をどのように説明したら、人々が受け入れやすいか。よくよく思案したことでしょう。そして、使徒の結論は、ことばの知恵によっては、本来のキリストの十字架はむなしくなってしまう。むしろ、十字架の生々しい事実を突きつけられてこそ、人は自分の罪の酷さを思い、それを赦すために命をささげたキリストの愛を知ることができる。その様な確信だったのです。

 

1:18~20「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」

 

今でも同じことが起こります。十字架のことを聞くと、「二千年前に死んだ人のことが、私と何の関係がありますか」と反発する人がいます。自分の罪を思い、キリストの愛にすがる人もいます。「十字に死んだ者を救い主と信じる等、愚かなこと。もっと宗教を学び、知識を積み重ねるとか、他の学者、賢者の意見も聞いてみるとか。するべきことがあるでしょう。」そう考え、離れてゆく人がいます。罪を悔い十字架のイエス様にひざまずく人もいる。昔も今も、人々の応答は真っ二つなのです。

「しかし、コリントの兄弟たちよ。あなた方の好きな人間の雄弁や議論や人間の知恵が、私たちを罪から救ったのですか。私たちの生き方を変えたのですか。そうではないでしょう。私たちを罪から救い、生き方を変えたのは、キリストの十字架に示された神の力ではなかったのですか。」そう、パウロは訴えています。

人を罪から救い、その生き方を真に変える力があるか、否かと言う点で見ると、この世の知恵は役に立たない。この世の賢者、学者、議論家のことばも無力。そうパウロは宣言し、十字架の福音を高く掲げてみせたのです。

パウロも認めていたように、コリント教会は賜物に恵まれた教会でした。特に、ことばの賜物と知識の賜物は、彼らの得意とするところでした。けれども、今日見たように、彼らはそれを自分の正しさを証明するため、相手を責めるため、倒すために使っていました。賜物を悪用して、仲間割れを起こし、神様を悲しませていたのです。コリントの町に良い証を立てるべき教会が、かえって社会の悪しき風潮に染まっていました。

私たちも、同じことを家族に、友に、兄弟姉妹に対してしたことはないでしょうか。与えられた賜物を、家族を責め、友を非難し、兄弟姉妹を倒すために使ってはいないでしょうか。

そのような時は、パウロが高く掲げた十字架、そこにつけられたイエス様の生き方をよくよく考えたいと思うのです。そうする権利があったにもかかわらず、神としての権威で罪人を責め、滅ぼそうとはしなかったイエス様。むしろ、持てる力のすべてを、罪人を救うため,清めるために使い、私たちに仕えてくださった十字架のイエス様を見上げ、家族、友、兄弟姉妹、大切な隣人に対する自らのことばや態度を修正してゆきたいのです。

最後に、誰が一番偉いのかを議論し争う弟子たちに、イエス様が言われたことば、今日の聖句として、読んでおきたいと思います。

 

マルコ10:43b、44「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

 

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