2018年3月18日日曜日

マタイの福音書26章36節~46節「キリストの受難~できますならば~」


キリストの復活を祝うイースターへ向けて、受難節を過ごしています。私たちを救うために主イエスが味わわれた苦しみ。その苦しみがどのようなもので、どのような意味があるのか。今日と次聖日の二回に渡って確認していきたいと思います。

 十字架にかかる直前、木曜日の夜。過越の祭のために賑わっていたエルサレムの二階座敷。イエス様は弟子たちと「過越の食事」を食されました。(本日の礼拝、交読文として皆で読んだ箇所です。)最後の「過越の食事」にして最初の聖餐式。イエス様ご自身、とても楽しみにされていた時間です(ルカ22章15節)。ここでイエス様は、パンをご自分の体、ぶどう酒の入った杯をご自分の血と言われました。この夜、その意味するところを弟子たちがどれだけ理解したのか分かりませんが、イエス様からすればご自分の死の意味を伝えていたのです。喜びと厳かさの入り混じる食事の時。

その食事の後、「賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけて」(マタイ26章30節)行きました。この時の賛美の歌とは、どのような歌なのか。(聖書に記されていなく、正確には分かりませんが)一般的に、過越の祭で歌われるのは詩篇113篇からの六篇、エジプト賛歌(出エジプトの出来事をモチーフとしているため、まさに過越の祭に相応しい詩篇と言えます)と呼ばれる歌です。

 当時の場面を想像するために、詩篇113篇の冒頭のみですが、確認したいと思います。

 詩篇113篇1節~4節

「ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

 日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。」

 イエス様が、ご自身の死を告げる過越の食事。厳かさがあったと思いますが、しかし暗いわけではない。食事の後、「時間的にも、空間的にも、あらゆるところで主の御名をほめたたえよ。あらゆるところに、主の栄光は現れている。」と皆で賛美する。どちらかと言えば、意気揚々。明るさを感じます。

こうして、イエス様と弟子たちは、エルサレムから谷を挟んだ東にありますオリーブ山の一画へ行きました。オリーブの油絞り場という意味の、ゲツセマネの園。ここは、イエス様が好んだ場所で、弟子たちと何度も来られた所です(ヨハネ18章2節)。谷を挟んだ向かいの丘にエルサレムの街灯りが見え、おそらくゲツセマネの園は暗かったでしょう。食事と賛美の明るさから、園の暗闇と静けさへと移る。

ここで主イエスは捕えられることになります。これ以降、真夜中の裁判と、拷問を経て、翌朝には磔にされる。十字架へと急展開となるところ。いや、正確に言えば、捕えられるのではなく、自らを差し出しに行く。殺されるのではなく、自ら命を注ぎだしに行くのです。このゲツセマネの園でイエス様が祈られた祈り。「ゲツセマネの祈り」として知られる主イエスの祈りに今日は注目いたします。

 マタイ26章36節~39節

「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。それから、ペテロとゼベダイの子のふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」

 イエス様は、弟子たちに対して、ご自分が約束の救い主であること。約束の救い主は、死に、復活することを繰り返し伝えていました。この過越の祭に来る時には、エルサレムにて、十字架にかかり死ぬことも明言されていました(マタイ20章17節~19節)。つい先ほど皆で食べた過越の食事、あの場で制定した聖餐も、ご自分の死を告げるものでした。

 自分が約束の救い主であること。約束の救い主の使命が、罪人の身代わりに死ぬこと。それがまさに実現しようとしている。これら、全てをご存知である方が、弟子たちと最後に過ごす時間。どのように過ごされたのかと言えば、祈ること。弟子たちとともに祈ることを願われた救い主。

 それでは、この時、何を祈られたでしょうか。なんと、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」という願いだったのです。「罪人の身代わりとなること、十字架で死ぬこと。そのような目に会わないように。この苦難から逃れられるように。この杯を過ぎ去らせてください。」という願いだったのです。

 使命を果たそうと決意を表明する祈りではなく、むしろ使命から逃げたい、逃れさせて下さいという祈り。この後、散り散りになる弟子たちを執り成す祈りではなく、自分自身のための祈り。十字架直前、最後の最後の場面で、このような願いを祈られるイエス様の姿を、皆様はどのように受けとめるでしょうか。

 この時のイエス様の苦しみ方、恐れ方は大変なものがありました。「悲しみのあまり死ぬほど」と言われ、医者のルカは「汗が血のしずくのように地に落ちた」(ルカ22章44節)と記録しています。それまでの雰囲気とは打って変わって、非常に重苦しい場面。全知全能にして約束の救い主であるイエスが、何をそれ程恐れていたのか。

 また、その祈りも一度で終わらず、二度、三度と祈られたと言うのです。

 マタイ26章40節~46節

「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。『わが父よ。どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさって下さい。』イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことを繰り返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

 眠りこける弟子たちに囲まれながら、必死に祈るイエス。悲しみのあまり死にそうになり、血のような汗を流しながら、繰り返し、一つのことを願うイエス。罪人の身代わりとなること、十字架での死を過ぎ去らせてほしいという願い。

 このイエス様の祈りを前に、人は様々なことを言います。

 「イエスは既に死を覚悟していたのではないか。繰り返し、弟子たちに告げていたのではないか。敵の手に自らを渡すために、この園に来たのではないか。それが、ここに来て、出来れば避けたいと願う。このような姿さえなければ、イエスは完璧なのに。」とか、

 「聖書の中の殉教者も、歴史上の殉教者も、信仰の故に死を覚悟する者たちは、自分の死を受け入れていた。それが、ここに記されたイエスときたら、覚悟がないことの表れではないか。」とか、

 「あなたの御心の通りにと言いつつも、結局は自分の願いを繰り返し祈っている。このイエスの姿は、人間的過ぎる。このような救い主の姿が記録されているのは、いささか残念に思われる。」などなど。

 イエスに対する様々な受け止め方があるとして、それでは私たちは、このイエス様の祈りの姿を、どのように受けとめるでしょうか。

そこまで批判的ではないにしても、たしかにここに記されているイエス様の姿は不思議と言えます。自分の使命を理解し、弟子たちにも死を明言してこられた。何故、ここにきてこの苦悩の姿なのか。このゲツセマネの園における主イエスの苦悶の秘密は何だったでしょうか。

 

 この時、イエス様がなぜこれほどの苦悩を味わわれたのか。その全てを私たちが分かるとは思えませんが、いくつか覚えるべきことはあります。

重要な一つのことは、イエス様はそもそも死とは関係の無いお方だということです。主イエスは、神の一人子であり、死と関係の無いお方。そもそも、神の一人子が死ぬというのは、私たちの理解をはるかにこえた奇跡中の奇跡でした。つまり、主イエスが死ぬというのは、死ぬべきでない存在の方が、死ぬとういこと。本来、永遠にして不死なるお方が、これから死ぬ。この時イエス様は、神である方が死ぬという苦悩に直面されていたのです。

もう一つ重要なのは、イエス様は完全に聖なるお方であるということです。完全に聖いお方が、罪を背負う。全く罪と関係のないお方が、罪人として裁かれる、その苦しみ。罪人が神の怒りを受けて裁かれるのは当然のこと。妥当、文句なしです。しかし、罪なき方が、罪の罰を身代わりに受ける。それも、キリストは多くの人の罪を背負って死なれるわけで、最も罪深い者として裁かれるのです。この時イエス様は、罪なき者が、罪の裁きを負うという苦悩に直面されていたのです。

ゲツセマネの祈りに示されたイエス様の苦悩は、覚悟がないからでも、人間的なのでもない。むしろ神であるからこその苦悩。完全に聖い方であるからこその苦悩だったのです。死を前に、これ程の苦悩と、それを避けたいと願われるのは、神が死ぬということは重大なこと、その背負われる私たちの罪が大きいことが示されているのです。

 ところで、このゲツセマネの場面で、イエス様と同様に、あるいはイエス様以上に苦しんでおられる方がいることにお気付きでしょうか。

イエス様は、ここで「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と独り言を言われたのではありません。祈られたのです。それも三度も。この祈りに、父なる神様は、どのように応じたでしょうか。

聖書には何も記されていない。沈黙、無言です。一人子が、血の汗を流しながら、必死に願っている祈りに、沈黙を貫く父なる神。罪ある私たちですら、その子の願いは聞きたいと思います。それも必死の願い、懇願であれば、自分の出来る精一杯で応えたいと思うもの。そうだとすれば、完全に愛なる方が、御子の願いに沈黙されるというのは、どれ程の苦悩であったのか。この時の父なる神様の心は、一体どのようなものだったと言えば良いでしょうか。

父なる神は、最愛の御子たる神の祈りを聞き捨てられた。誰のためでしょうか。何のためでしょうか。他でもない。私たちのためです。私を救うために、主イエスの願いを退けられたのです。一体どれ程私たちは愛されているのか。

 この父なる神様の愛を、ヨハネは次のようにまとめました。

 ヨハネ3章16節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」

 

 今日の箇所に合わせて言えば、「神は、実に、そのひとり子の願いを退ける程、私を愛された。」のです。

 パウロの言葉も思い出されます。

 ローマ5章8節

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

 今日の箇所に合わせて言えば、「キリストの願いを退けることを通して、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにして下さった」のです。

 イエス様の苦しみを通して示される私たちに対する愛。父なる神様の苦しみを通して私たちに示される愛。その愛を、私たちはどれだけ真剣に受け止めてきたでしょうか。

 

 キリストの苦しみ、父なる神様の苦しみの意味を覚える受難節。私たちはこれまでどれだけ真剣に、キリストの味わわれた苦しみ、父なる神様の味わわれた苦しみに向き合ってきたでしょうか。あまりに簡単に、キリストの死を考えていなかったか。あまりに気軽に、キリストの苦難を論じていなかったか。私たちを救うために、主イエスと父なる神が苦しまれたのに、その苦しみをあまりに軽く考えていなかったか。

 パリサイ人シモンに対して、イエス様が語られた小さなたとえ話がありました。

 ルカ7章41節~43節

『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。』シモンが、『よけいに赦してもらったほうだと思います。』と答えると、イエスは、『あなたの判断は当たっています。』と言われた。

 

 より多く赦された者が、より愛する者となった。話は簡単、当たり前のこと。しかしそうだとすれば、私たちはキリストの味わわれた苦しみ、父なる神が味わわれた苦しみが、どれ程のものであったのか、精一杯確認する必要があります。

 イエス様と父なる神様の苦しみを小さく見積もることは、結局、自分の罪を小さく見積もることにつながります。イエス様と父なる神様の苦しみを大したことではないと受け止めるということは、結局その愛も、大したことではないと受け止めることにつながります。

 私などには、どうせキリストの苦しみは分からないと嘯くことのないように。主イエスをして「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と願う程の苦しみを、私のために味わわれた。父なる神をして、御子なる神の願いを退けられた。その苦しみのゆえに、私たちは救われていることを、今日確認したいのです。

 

 以上、「ゲツセマネの祈り」の箇所でした。

一般的に、「ゲツセマネの祈り」からは、祈りについて様々なことが教えられると言われます。イエス様ですら、自分の使命から逃れることを願った。そうだとすれば、私たちもどのような願いも許されること。とはいえ、イエス様は自分の願いよりも、父の御心を優先させた。そうだとすれば、祈りとは、自分の願い通りに神様を動かすことではなく、神様の御心に自分を合わせること。「ゲツセマネの祈り」から、祈りについて、このようなことを受け取ることも良いこと、大事なこと。

しかし今日は特に、この祈りに込められたイエス様の苦しみ、この祈りを聞かれた父なる神様の苦しみに焦点を当てたいと思います。私たち一同で、真剣に、主イエスの苦悩、父なる神様の苦悩に目を向けたいと思います。主イエスがどれ程の苦しみを味わわれたのか。その背後に、父なる神様がどれ程苦しまれたのか。その苦しみに示された、私たちに対する愛の大きさを覚えたいと思います。

私たち皆で、「イエス様の苦しみ、父なる神様の苦しみがよく分かるように。その苦しみに示された私たちへの愛がよく分かるように。」と祈ること。キリストの受難の箇所を読むこと。信仰の仲間と分かち合うことに取り組むことが出来ますように。皆で、主イエスの、父なる神様の苦しみに焦点を合わせながら、キリストの復活を祝うイースターへと歩みを進めていきたいと思います。

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