2017年最後の礼拝となりました。いつからか年末恒例になった感のある、この一年間の世相を表す漢字一文字。2017年の一文字は何か。皆様ご存知でしょうか。
北、東西南北の北です。北朝鮮のミサイル発射、九州北部豪雨、北海道産じゃがいもの不作、北海道日本ハムの大谷選手の大リーグ行きや清宮選手の入団、競馬キタサンブラックの大活躍などが選ばれた理由のようです。緊張を覚えたり、心配したり、ドキドキしたり、ワクワクしたり。振り返れば、この一年間の出来事に、様々な思いを抱いたこと思い出します。
しかし、世相を振り返ることも良いのですが、私たち、自分自身のこの一年間の歩み振り返ることも必要ではないかと思います。特に、神を信じる者として、私たちが振り返るべきこと、それは何でしょうか。ある時、イエス様は、私たちに対する神様のすべての命令の中心にあるものとして、二つの戒めを挙げました。
マタイ22:37~40「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神である主を愛する。神様との関係。隣人を自分自身のように愛する。隣人との関係。私たちの一年の歩みは、この二つの点においてどうであったのか。これを念頭に置いて、今日の個所読み進めてゆきたいと思います。
ユダヤの都エルサレムの近く。オリーブ山の麓にベタニヤ村があります。ベタニヤは、「青い果物の家」とか、「貧しい者の家」という意味の小さな村。そこに、イエス様がしばしば足を運んだ家がありました。仲の良い姉妹が暮らすその家を、イエス様は好まれたらしく、この日も旅の途中、一休みしようとされたのです。
10:38,39「さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」
「ある村」というのがベタニヤ村です。ここにマルタとマリヤという姉と妹が登場します。
この二人、同じ血を分かち合いながら性格は正反対。太陽と月でした。お姉さんのマルタは行動派で、妹のマリヤは内省派。姉が動なら妹は静。以後、女性をマルタ型とマリヤ型に分類するひとつの物差しになっています。
お姉さんのマルタは、イエス様が来てくださるというので、早速台所に立つと、あれもこれもと、料理で奮闘します。マルタは働き者で世話好きで、どうしてイエス様をもてなそうかと考え、片時もじっとしていられなかった様です。一方、妹のマリヤは脇役で、お姉さんのお手伝い。その間、手が空けば、お客さんのお相手等していたのかもしれません。お姉さんが「とつ」なら、妹は「おう」。おうとつコンビで、いつも補い合ってていたのでしょう。
いつもそうだとはきまっていないまでも、少なくとも、ここの場合は、積極的なマルタと、受動的なマリヤという色分けになっています。
しかし、この日。最初妹のマリヤはいつもの通り、お姉さんと台所で一緒に料理をしていましたが、いつの間にか、イエス様の足下に座り、イエス様の語ることばに耳を傾けている。ところが、姉のマルタはそのまま台所でひとり働き。汗をにじませて立ちまわっていた。
ここにマルタの弱点が現れてしまいます。自分がこんなにも忙しくしていると言うのに、手も足も動かそうとしない妹の姿にストレスがたまり、血圧も上がっていたのでしょう。八つ当たりを演じてしまったのです。
10:40「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
八つ当たりです。妹のマリヤに当たったのならともかく、なんと肝心の客人のイエス様に当たってしまった。もてなそうとしている当のお客さんに八つ当たりです。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。」主よ、とは言っていますが、ことばにトゲがあります。剣呑な雰囲気です。
最上にもてなそうとしていながら、かえって、大切な客に当たってしまう。これでは、一体何のためのもてなし、何のための親切かということになります。行動型の人の欠点、よく仕事ができる人の盲点。本末転倒した姿です。
お客さんのおもてなしが、いつしか、お客さんのためという目標を乗り越えてしまう。「こうしたい」「ああしたい」という自分の思い、自分の計画の方が主となり、思い通りに動かぬ妹に腹を立て、肝腎なお客さんへの抗議となってしまいました。
親切心、心配り、気遣い、行動力。それらは、お姉さんマルタの美点です。しかし、残念なことに、一線を越えてしまった。妹に助けをお願いしたらよかったのに、お客さまに八つ当たりしてしまったのです。自分では意識しなかったでしょうが、本末転倒。折角のお客さんにとっては、ありがた迷惑です。
マルタはイエス様に、「私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と、言いましたが、それは無理な話です。客の身分で、「さあ、わたしのためのご馳走づくりを手伝ってきなさい。」なんて、言えるわけがないでしょう。
私たちは、人のためと思ってやっているうちに、自分の計画が主になってしまって、人を居たたまれなくしてしまうことがあるようです。マルタの好意も親切も、十分にわかります。イエス様としても、感謝の他はなかったでしょう。しかし、その親切が押しつけがましくなってしまっては、残念です。行動型の人が、特に気をつけなければならない盲点でした。
ですから、イエス様は、マルタらしい親切には十分に感謝しながら、いつくしみながら、優しくマルタを制しています。
10:41「主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」
「そんなに心配しなくてもよいのに。あなたは色々なことを心配しすぎて、それが思い煩いになってしまっていますね。わたしのために、そこまで心を使ってくれて。本当にありがたいこと、かたじけないことです。しかし、妹が選んだことを取り上げてはいけません」と。
10:42「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
「必要なことはわずか、いや、一つだけ」と言われたイエス様。この「一つだけ」とは、どういう意味なのでしょうか。ご馳走の品数が一品でよいという意味では、おそらくないでしょう。
「人生、あれもこれもと思いつけばきりがありませんね。「あれもしたい。これもしなければ」。そんな様々なことで毎日キリキリ舞いしてはいませんか。そのくせ、大事な、最も大事な一つを忘れてはいませんか。人生でも、絶対に必要なものはわずかですよ。いや、ひとつだけですよ。今あなたの妹マリヤが、その一つを選んだことに気がつきませんか。」イエス様からマルタへのメッセージです。
しかも、時が時でした。この時は主の十字架も近づいて、イエス様が一分でも、一秒でも多くを語り残しておきたい、教えておきたいと思って、訪問されたのではありませんか。時は迫っていたのです。
それを感じたのでしょうか。マリヤは、この時勇気ある行動にでました。と言うのは、その頃ユダヤは男尊女卑の風潮が色濃く、女性が宗教の教師に近づき、直接教えを聞くことは、許されていなかったのです。行動型ではないマリヤのタブーへの挑戦、大胆な行動です。
お姉さんの冷たい視線も承知の上。弟子たちが眉を顰めているのも分かった上で、マリヤは、イエス様のみ言葉を聞くことを選びました。イエス様もマリヤの思いを理解し、受けとめたからこそ、マリヤの選択を称賛したのです。それだけでなく、お姉さんのマルタにも、ご自身の教えを聞くように、耳を傾けるようにと招いておられるように見えます。
人生は多忙です。「あれも欲しい。」「これもしたい。」「これも必要。」「あれもしなければ。」私たちは日々思い煩いがちです。しかし、イエス様は、本来の私たち人間に必要なことはわずか。中でもどうしても必要なことは、神様のみことばを聞くこと、神様の教えを心に刻むこと。神様との関係を第一にせよと勧めているのです。
「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。」だから、あなたもそうしなさい。マルタに語られたことばは、私たちにも向けられたものであること、覚えたいのです。
趣味に励むのはよい。技師になるとか、学校の先生になるとか勉強に励むことはよい。しかし、最後に天国にいけなかったらどうなるのか。出世するのもよい。名誉肩書きをもつのもよい。しかし、しかし、肝腎の天国へ行けなかったらどうなのか。
地上の試験に受かって、天国の鍵を失ってしまったら。地上では豊かでも、天国では貧しいとしたら。それは、本当に幸いな人生と言えるでしょうか。第一のことを第一に。何よりもまず神のことばを聞け、神の教えに耳を傾けよ、でした。
明治の時代、有名なクリスチャンの一人に、植村正久と言う牧師がいました。その植村牧師を、ある名古屋の富豪が夕食に招待した時のことです。
それこそ、日本一の牧師。植村先生が名古屋に来られたというので、自宅に招待し、金に糸目をつけず、次から次へ大ご馳走をふるまいました。食卓に並んだ山海の珍味に関する自慢話でお開きとなった時、植村牧師が富豪に向かって言ったそうです。
「君。君は、植村牧師をよんだのか、それとも一匹の豚をよんだのか。豚ならば、食わせるだけでよかろう。しかし、もし牧師をよんだのなら、牧師の持てる福音を一言でも聞いたらよかろうに。わたしは豚ではない。」あれもこれもの料理でもてなそうとしましたが、客は満足しなかったという一幕でした。
私たちも、イエス様を人生にお迎えしていながら、同じようなことをやらかしているのではないでしょうか。無くてならぬものは多くはない。いや唯一つだと言われたイエス様。その一つ、みことばを聞くことをもって、主イエス様をおもてなしする。イエス様が喜ぶおもてなしとはなにか。私たち改めて考えさせられるところです。
世の中の人は、私たちのことを思って言ってくれます。「礼拝だなんて、毎週教会なんかに行ってばかり。他にも、すべきことが山ほどあるのに」と。「祈るより稼げではないか」とか、「折角の日曜日だろう」「せっかくの青春だろう。折角の人生だろう。他にも楽しいこと、すべきこと、したいことがあるだろうに」と心配してくれます。
しかし、「実は、私にはこれこそ、人生において最も大事なことなのです、無くてならぬ一つなのです」とお答えする。「一日とか、一生とかで尽きるものではなく、永遠に通ずることなのですから」とお答えしたいのです。
こうして、読み終えた今日の個所。改めて振り返りたいのは、この一年間の歩みです。皆様の、神様との関係、家族、教会の兄弟姉妹、職場や地域社会の隣人との関係は、どうだったでしょうか。
まず、隣人との関係については、マルタの姿を鏡に考えてみたいと思います。イエス様もそれを認め、感謝したように、マルタの隣人への親切心、心遣い、行動力は彼女の長所でした。果たして、私たちは家族や兄弟姉妹を助けるため、地域の隣人、世界の隣人の必要のため、どれだけ心を配ってきたでしょうか。どれほど、愛を実践してきたでしょうか。振り返ってみたいのです。
他方、マルタの行動力は、隣人を助けるという本来の目的に反して、隣人の心をいたたまれなくさせてしまいました。人のためにと思って始めたことが、いつの間にか自分の思い、自分の計画が主となり、本末転倒。思い通りにならない隣人へのイライラが爆発。八つ当たりで、人を困らせることになったのです。
私たちも、こんな自己中心的な愛で、隣人を困らせ、苦しめたことはなかったか。人を愛することから、人を責めることへ。一線を越えてしまう自分の弱点、欠点を、神様に告白し、助けを求めたいと思うのです。
そして、最後は、イエス様が第一のものを第一にと言われた、神様との関係です。私たちはこの一年、どれほど神様の教えを聞くために、時間をとってきたでしょうか。みことばを通して、神様と交わることが、人生においてどうしても必要な一つのことと言う思いはあったでしょうか。みことばを通して、神様の愛を受け、喜ぶことがなければ、私たちの魂は力を失い、悲惨な状態になること。自覚しているでしょうか。
最後に、今日の聖句を共に読みたいと思います。
マタイ22:37~40「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」