私たちは日々、様々なものから影響を受けています。特に身近な人、好きな人、憧れの人からは影響を受けやすく、考え方、話し方、仕草、あるいは服や髪型も、似ることがあります。意識的に真似をすることもあれば、似ていると言われたくなくても、親や兄弟と同じような考え方、話し方、仕草をすることもあります。私の場合は、よく父に似ている、特に声は似ているどころではない、同じだと言われます。説教などの公の場での話し方や、電話での声だと、区別がつかないと何度も言われてきました。
身近な人、尊敬する人の影響を受けるというのは、信仰生活も同様です。礼拝に対する態度、祈り方、賛美の仕方、聖書の読み方、奉仕への取り組み方、献金への思い、隣人への接し方、問題に対する対処の仕方。良い影響も、場合によっては悪い影響も、私たちは身近な人の信仰生活から受けることになります。皆様は、自分のこれまでの信仰生活、誰の影響を強く受けてきたと思うでしょうか。
当然のことながら、私たちは周りの人から影響を受けるのと同時に、影響を与える側でもあります。「どのような影響を受けるか」だけでなく、「どのような影響を与えるのか」についても考えるべきことですが、今日はもう少し影響を受けることについて考えます。
聖書の中には様々な預言者が出てきますが、仮に同時代、同じ地域で信仰生活を送ることが出来るとしたら、皆様はどの預言者と一緒に信仰生活を送りたいと思うでしょうか。影響を受けるとしたら、どの預言者が良いでしょうか。エリヤ、エリシャのような人々から注目される人が良いでしょうか。エレミヤやダニエルのように、苦難の中でも与えられた使命を全うする人が良いでしょうか。ヨナのように、預言者の働きから逃げ出しても、それでも神様に用いられる人が良いでしょうか。ホセアのように生き様を通して神様のメッセージを伝える人。アモスのような農夫でありながら巧みな説教者。ハバククのように、これ以上ないほど真剣に神様に向き合う人。実に様々な預言者がいますが、影響を受けたい人という中に、ゼパニヤは入るでしょうか。
六十六巻ある聖書から、一つの書を丸ごと扱う一書説教。断続的に行ってきましたが、今日は三十六回目。旧約聖書第三十六の巻き、ゼパニヤ書です。
ゼパニヤという名前は、主が匿う者、主が護る者という意味。日本名なら、護となりまして、私としては親しみがあります。全三章の小さな預言書。しかし、そこに込められたメッセージは実に豊か。当時の神の民に多大な影響を与えたと思われるゼパニヤの言葉を、今日は皆様とともに確認したいと思います。
毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。
それではゼパニヤは、いつの時代、どこで活躍したのでしょうか。
ゼパニヤ1章1節
「ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代に、クシの子ゼパニヤにあった主のことば。クシはゲダルヤの子、ゲダルヤはアマルヤの子、アマルヤはヒゼキヤの子である。」
ゼパニヤが預言者活動をしたのは、南ユダ王国、ヨシヤ王の時代。これがどのような時代だったか、覚えているでしょうか。
ヨシヤの曽祖父にあたるヒゼキヤ王は、善王として知られる人物。預言者イザヤとともに、強国アッシリヤを退けた信仰の人。ところが、そのヒゼキヤの子、マナセ(ヨシヤからすれば祖父)は最悪の王でした。南ユダ歴代の王の中でも、名うての悪王。
マナセ王について、聖書は次のように評していました。
Ⅱ列王記21章1節~3節、6節
「マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。彼の母の名はヘフツィ・バハといった。彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。・・・また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。」
あの善王ヒゼキヤの子が、何故これ程の悪王となったのか、不思議です。そして、もう一つ不思議なのは、マナセの治世年数の長さ、南ユダ王国史上最長の五十五年です。何故、神様はこれだけの年数、マナセが王であることを許されたのか。ヒゼキヤ、イザヤ時代の信仰、良い風習は、マナセの時代で見事に塗り替えられ、悪習が蔓延り、この間に聖書(律法の書)が見失われた事態となります。
マナセの死後、その子アモン(ヨシヤの父)が王となりますが、悪政を引き継いだ結果、家来の謀反に遭い、その治世は僅か二年。結果、ヨシヤは八歳にして王となります。
聖書に反する祖父、父を持ち、その父は謀反で殺されてしまう。幼少ヨシヤは、どのような思いで王となったのか。神の民の歩みは、どうなってしまうのかと思うところ。ところが、このヨシヤ王が、稀代の善王として南ユダを治めることになります。
Ⅱ歴代誌34章1節~3節
「ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。彼の治世の第八年に、彼はまだ若かったが、その先祖ダビデの神に求め始め、第十二年に、ユダとエルサレムをきよめ始めて、高い所、アシェラ像、刻んだ像、および、鋳物の像を除いた。」
ヒゼキヤの子マナセが、あれほどの悪王であったことに驚きますが、そのマナセの孫であり、アモンの子であるヨシヤが、並はずれた善王であったことにも驚きます。
ヨシヤ王が具体的に取り組んだことは、列王記、歴代誌に記されています。祖父マナセ王が持ち込んだ異教の偶像を取り除き、神殿を改修し、失われていた聖書(律法の書)を見つけ出し、それまでに行われたことのないほど忠実に過ぎ越しの祭りを行いました。南ユダが長きに渡って見失っていた神の民の姿を取り戻した王、宗教改革のヨシヤです。
何故、ヨシヤは主なる神様に対する信仰を持つことが出来たのでしょうか。第八年に、主なる神様を求め始めたと書かれていますが、何があったのでしょうか。ヨシヤに何があったのか、聖書には明確に記されていませんが、このヨシヤの信仰に影響を与えたのは、親戚であり預言者であるゼパニヤと読むことが出来ます。(ゼパニヤの預言の内容から、南ユダが宗教的、倫理的に退廃していることが分かります。そのため、ゼパニヤの言葉はヨシヤ王の宗教改革前の預言であり、ゼパニヤの言葉を受けてヨシヤが宗教改革へ導かれたと考えられます。)
計五十七年に渡る不信仰の時代を経て、主なる神様に立ち返ることを必死に訴える預言者ゼパニヤ。稀有な信仰者となるヨシヤ王に多大な影響を与えたであろうゼパニヤの預言。その内容はどのようなものでしょうか。
ゼパニヤ1章2節~4節
「わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ。――わたしは人と獣を取り除き、空の鳥と海の魚を取り除く。わたしは、悪者どもをつまずかせ、人を地の面から断ち滅ぼす。――主の御告げ。――わたしの手を、ユダの上に、エルサレムのすべての住民の上に伸ばす。わたしはこの場所から、バアルの残りの者と、偶像に仕える祭司たちの名とを、その祭司たちとともに断ち滅ぼす。」
ゼパニヤ預言の冒頭の言葉。罪、悪に対する激しい裁きの宣言。この裁きの調べが、ゼパニヤ書の半分以上を占める内容となっています。
罪の中に眠りこける者たちに、警鐘を鳴らし、冷水をぶちかけ、その状態がいかに危険であるか訴えかける。神様を無視して生きること、「主」である神以外のものを神とすることが、いかに危険であるのか。神無しとして生きることのないように。義であり聖である神様を覚えて生きるように。聖書が繰り返し教えているメッセージ、多くの預言者が語り続けてきたメッセージを、ゼパニヤも強く主張するのです。
この時代の南ユダの人々の心の内について、次のように語られていました。
ゼパニヤ1章12節
「その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、『主は良いことも、悪いこともしない。』と心の中で言っている者どもを罰する。」
マナセ王、アモン王と、長きに渡る不信仰の時代を経た結果なのでしょう。神の民である者たちが「主は良いことも、悪いこともしない」と思うようになっていた。
恵みに気付かず、懲らしめにも気付かない。正しく生きようが、悪に走ろうが、違いはない。主を信頼しようが、別なものを信頼しようが、何も変わらない。信仰というのは心の中だけのこと、現実の出来事には影響がない。神がいるということは認めても、自分の人生に関わりがあるとは認めない、という態度。
この神の民に、主は善に報い、悪を罰する方であること。特に不信仰に陥ったこの時代、罪に対する裁きを強く訴えるのが、ゼパニヤでした。
(余禄となりますが、ゼパニヤは繰り返し、神様が罪を罰する時が来ることを告げますが、それはゼパニヤだけがしていることではなく、ゼパニヤ以前の預言者も繰り返し告げていたことです。そして、何人もの預言者が、神様が罪を罰する時を「主の日」と呼びましたが、ゼパニヤも「主の日」という言葉を用いて、神様の裁きが近づいている、それ程、ひどい状態にあることを訴えました。)
ゼパニヤ書の半分は、裁きの宣言ですが、私たちがその言葉を読む時に、自分とは無関係の言葉として読むことのないように。義であり、聖である神様は、罪、悪をどのように思われているのか。その神様の前で日々生きていることを忘れていないか。心のどこかで、「主は良いことも、悪いこともしない」と思っていないか。「どうせキリストによって救われているのだから」と嘯くのではなく、自分の生活、自分の心をかえりみて、悔い改めるべきことはないか、告白すべき罪はないか、考えながら読みたいと思います。
それでは、何故ゼパニヤは繰り返し、執拗に裁きの宣告をしたのでしょうか。それは、裁きを逃れる道があることを示すためでした。
ゼパニヤ2章1節~3節
「恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」
ゼパニヤという名前は、主に匿われる者、主に護られる者、という意味。そのゼパニヤが、神に匿われることを勧めます。主の怒りの日に、いかにすれば匿われるのかを告げ知らせるのです。
もみがらのように追いやられる前に、激しい怒りが臨む前に、憤りの日が来る前に、神様に遜ること、正義を求めること、柔和を求めるように。
「自分は悪くない。裁かれる者ではない。いや、そもそも主は良いことも悪いこともしないではないか。」と考える者たちに対して、繰り返し断罪し、裁きを告げたのは、その裁きから逃れる道があるから。神に匿われる道があるからでした。罪を認め、自分で正しくあろうとするのではなく、神様から義を頂くよう求めるように。これが、ゼパニヤが告げたい中心メッセージと読めます。
ところで、ゼパニヤ書に記された言葉は、神様から神の民に語りかける言葉と、ゼパニヤが神の民に語りかける言葉、両方が記されています。例えば、預言の冒頭に語られた裁きの言葉は、「わたしは必ず地の面から、すべてのものを取り除く。――主の御告げ。――」(ゼパニヤ1章2節)ですが、これはゼパニヤ自身の言葉ではなく、神様の言葉です。
それでは二章の冒頭の言葉は、どうでしょうか。「わたしを尋ね求めよ。」ではなく、「主を尋ね求めよ。」ですので、これはゼパニヤが神の民に語りかける言葉であることが分かります。
ゼパニヤ自身の言葉。そのため、遜り、義と柔和を主に求めれば、匿われる「かも」しれない、と言いました。「匿われます」という断言でなく、「かもしれない」という表現。
ところが、その預言の終わりで、神様ご自身の言葉として、遜る者たち、神様に助けを求める者たちをどのように扱われるのか。宣言されることになります。ゼパニヤの宣言を、神様が承認される。
ゼパニヤ3章12節~13節
「わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。」
ゼパニヤの告げた通り、裁きの中にあっても、遜る者、神に身を避ける者をわたしは匿う、その民を残すと言われる。この神様の言葉を受けて、ゼパニヤは大いに喜び、大きな賛美で預言が閉じられていくことになります。
ゼパニヤ3章14節~17節
「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」
裁かれるはずの者が、神様が喜ぶ者となる道がある。「かもしれない」ではなく、「間違いなくある」。これ以上ない福音の宣言となってゼパニヤ書は閉じられていきます。罪を自覚し、悔い改めるように。それは、裁きを免れるためであり、神様に喜ばれるためである。
このゼパニヤの信仰、預言を見聞きして、ヨシヤは善王として生きることになりました。私たちは、ゼパニヤの言葉を聞いて、どのように信仰生活を送るでしょうか。
以上、ゼパニヤ書を概観しました。信仰が冷え切り、悪がはびこる状況の中、罪の中に留まる危険と、神の裁きが来ること。しかし、その裁きを回避する、神様に匿われる道があることを示したゼパニヤ。ゼパニヤ書を読む際には、自分自身にも語られた言葉として受け取ることが出来るようにと願います。
断罪の言葉、裁きの宣告の言葉を前にする時は、自分の生活、自分の心をかえりみて、悔い改めるべきことはないか、告白すべき罪はないか、考えながら読みたいと思います。
神様に匿われる道があると教えられる言葉を前にする時は、真剣にその道を歩む決心をすること。ゼパニヤが神の前に遜ると教えたことが、今の私たちには、より明確に、より具体的に教えられていること。つまり、本当の意味で神様の前に遜るとは、主イエスの十字架での死と復活が私のためであったと信じること。そのように救い主を受け入れる者は、神の子とされること。まさに、これ以上ないほど神様に喜ばれる存在となることを再確認したいと思います。今やキリストにあって、神に匿われる者とされたこと、神の子として神様に喜ばれる存在とされたことを、皆で心から喜びたいと思います。