私たちは、世界の造り主である神様を「愛の神」と呼びます。私を愛したもう神。しかし、その神様の愛を、私たちはどれ程考え、意識し、味わっているでしょうか。
私たちが誰かを愛するという時。その相手の一挙手一投足、一顰一笑に、喜んだり傷ついたりするものです。思いが強ければ強い程、自分の愛を受け取って欲しい、理解して欲しいと願う。自分を常に覚えておいて欲しいと要求します。それにもかかわらず、神様の愛を忘れて過ごす時が多く、神様がおられなくても特に問題ではないかのように振る舞うことが多い私たち。神様の愛に、冷淡、無情な私たち。どれだけ、神様を悲しませる歩みをしてきたのか。
今一度、今日の礼拝と御言葉を通して、神様の愛を実感出来るように。神様の愛を味わいながら生きることが出来るように願います。
六十六巻からなる聖書。そのうち一つの書を丸ごと扱い説教する一書説教。断続的に取り組み、ついに旧約聖書の終わりとなりました。今日は旧約聖書第三十九の巻、小さな預言書、マラキ書となります。
預言書というのは、多くの場合、神様から神の民に語られる言葉が記されます。「預言」とは、その字の示す通り、神様からの言葉を預かること。預言者の働きは、神の言葉を預かり、それを神の民に伝える。預言書の多くは、預言者を通して神様から語られた言葉の記録です。
しかし、「神様と預言者の対話」、「神様と神の民の対話」自体が預言となる書があり、有名な一つはハバクク書でした。預言者が問い、それに神様が答えて下さる対話を通しての預言。もう一つ有名なのが、このマラキ書です。神様が神の民に語りかけることから始まる対話が、預言の中心となる書。一体どのような対話がなされているのか。
毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。
旧約聖書には、マラキ書含め十七の預言書が収められています。その多くは、冒頭にいつの時代、誰が書いたものと記されていますが、いくつかはどの時代なのか、預言者の素性が分からないものがあります。マラキ書は、いつの時代か記されていなく、「マラキ」という名前は分かっても、どのような人なのかよく分からない預言者。
しかし、記されている内容と文体、用語から、BC400年頃に記されたものと考えられています。律法学者エズラや、総督ネヘミヤの活躍した時代と重なります。バビロン捕囚から帰還し、神殿再建と城壁再建がなされ、環境としては復興が進む状況。しかし信仰面では、神の言葉を侮る民、職務を軽んじる祭司。神の民の信仰は惰性となり、敬虔な生活は失われている状況。そこに遣わされた預言者マラキ。
その内容は、先ほど確認したように、神様と民の対話が中心の預言となります。この一書説教では、その対話の中でも主な三つのやりとりを確認してマラキ書の概観としたいと思います。
マラキ書1章1節~2節a
「宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。」
神様と民の対話。その最初は、神様の「あなたがたを愛している」との声に、「どのように、愛しているというのか。」との問いで始まります。とても興味深く、重要な対話だと思います。神様は何と答えられるのか、想像しながら読みたいところ。
ところで、神様の「愛している」という声に、「どのように、愛しているのか。」と問いで返しているのは、神様を知らない者たちではありません。神の民が、この問いを発しているのです。恋人同士の会話として、片方が「愛している」と言い、それは分かっているけど、今のあなたの言葉で表現して欲しいので「どのように愛しているのか教えて」と問うている対話ではありません。神の民が、神様の愛を疑い、責めるような問いを投げかけているのです。
神様はご自身の民を愛している。しかし、神の民には、その愛が分からない。味わっていない。実感していない。という課題があった。
この問いに神様はどのように答えているでしょうか。
マラキ1章2節~3節
「『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。『エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。』」
注目の神様の答え。それは「エサウを憎み、ヤコブを愛した」という答えです。エサウよりもヤコブを愛したということ。それにしても、「どのように愛されたのか」という問いに対して、これはどういう意味の答えなのでしょうか。
エサウ、ヤコブのことは、詳しくは創世記に記されています。神の民として祝福の約束を受け継ぐのは、兄エサウではなく、弟ヤコブでした。何故、エサウではなく、ヤコブが神の民に選ばれたのか。ヤコブがエサウより特別に優れているということは記されていません。どちらかと言えば、むしろエサウの方が人間的魅力に富んでいる印象があります。ヤコブに特別に愛される理由があるわけではない。ただ、神様がヤコブを愛したいから、愛したということ。条件なし。理由なし。神の民は、神様の選びによって、愛された者たち。
「どのように愛されたのか」という問いに対して、「エサウを憎み、ヤコブを愛した」との答え。それは、代価を払ったわけでもなく、条件を満たしているからでもなく、ただ神様の選びによって愛された、ということです。このような神様の愛について、聖書は色々な箇所で記しています。例えば、申命記の表現では、次のようなものです。
申命記7章7節~8節
「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」
無条件に愛されていること。その結果、まさに今神の民であること。それこそが、神様が私たちを愛していること。私たち新約の神の民は、キリストを通して神の民とされました。私たちで言えば、キリストによって救われていること、神の民とされたことに、神様の愛を覚えられるか、問われるところ。
このような神様の回答を、皆様はどのように受け止めるでしょうか。
確認したい対話二つ目は、神の民が神様を煩わしているというものです。
マラキ2章17節
「あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは煩わしたのか。』『悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか。』とあなたがたは言っているのだ。」
正しい者が虐げられ、悪人が栄えているような状況。神様が悪を良しとされているように思われる状況。神様の義についての課題。しかし、これはこの時代だけのものでなく、すでにマラキ以前の多くの預言者が、この課題に向き合っていました。エレミヤやハバククは、強い言葉で義について神様に問いましたが、しかし、神様が悪の味方をしているとは考えませんでした。
ところが、マラキの時代の人々は、悪が栄えている姿を前に、神様は悪を喜ばれているとまで言うようになっていた。先に神様の愛を疑った者たちは、神様の義を疑うことになります。
正しく生きる者が馬鹿を見、不正を働く者が栄える。神様の義というのは、一体どのようにこの世界と関係しているのか。皆様の中に、このテーマで悩んだ方はおられるでしょうか。
この問いに対する神様の応答はどのようなものでしょうか。
マラキ3章1節~2節
「『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。』と万軍の主は仰せられる。だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。」
神様はこの世界に無関心であるわけではない。ましてや、悪の味方であるわけでもない。その義に従って、必ず世界を裁かれる時が来る、という答え。仮に私たちの目に、悪が栄えるように見えることがあっても、それで神様の義がなくなったわけでも、神様が世界を統治されていないわけでもない。
そのため、神の民は、神様の義を覚えて生きること。正しく生きることに何の意味があるのかと思うような状況があったとしても、それでも正しく生きることを目指すように教えられるのです。
このような神様の回答を、皆様はどのように受け止めるでしょうか。
確認したい対話三つ目は、神の民が、神様の語りかけに応じない姿となります。
マラキ3章7節
「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。――万軍の主は仰せられる。――しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。」
神様の愛を疑う者たち。神様の義を疑う者たち。聖書から離れ、その教えを守らなかった神の民へ、神様は「わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。」と言われます。悔い改めの招き。神の民がどのような状態であろうとも、語りかけ、招き続ける神様。
ところが、その神様の招きに対して、神の民は「どのようにして、私たちは帰ろうか。」と嘯きます。神のもとに帰るとはどのようなことか。どうしたら帰ることが出来るのか。という問いではなく、帰るつもりはない、悔い改めるつもりはない、という言葉。残念無念の姿。そして、この対話は、民のつぶやきで終わりとなります。
私たちはいつでも神様のもとへ立ち返ることが出来る。いつでも悔い改めることが出来る。その上で、神様が立ち返るようにと招いているのに、なおも罪の中に留まるとしたら、これは大変なこと。
この神様と神の民のやりとりを、皆様はどのように受け止めるでしょうか。
マラキ書の神様と神の民の対話の中から、三つの対話を確認しました。教えられるのは、「神様の愛が分からない」という問題が、様々な問題の根につながるということです。神様の愛が分からない者は、神様の義を信じられなくなり、さらには神様の呼びかけに答えなくなるということ。神様の愛を確認しないことが、神様ご自身との交わりから遠のくことにつながるのです。
神様ご自身との交わりから遠のく姿が、マラキ書にはいくつも出てきました。
マラキ1章6節b、8節
「わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』と。・・・あなたがたは、盲の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないのか。足なえや病気のものをささげるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる。――」
神の愛が分からない者は、神様を愛することが出来なくなる。祭司が、礼拝を通して、神様を侮るようになる姿。
マラキ3章8節
「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。」
神様の義が分からなければ、神のものを盗むことも平気になる姿。さらには、
マラキ3章13節~15節
「『あなたがたはわたしにかたくななことを言う。』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『私たちはあなたに対して、何を言いましたか。』あなたがたは言う。『神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。』と。」
悪に留まり、罪を悔い改めることがなければ、敬虔に生きることもなくなる姿など。「神の愛が分からない」ことが、神の民にとって致命的な問題であることが、マラキ書全体を通して、よく教えられるのです。
以上、マラキ書でした。「神様に愛されていること」これは、私たちにとって最も重要なこと。生きていく上で最も必要なこと。聖書全体で教えていることですが、私たち自身にどれだけ実感があるでしょうか。神様に愛されていることを味わいながら人生を生きることが最も重要であると頭では分かったとして、心から同意しているでしょうか。「無病息災、家内安全、商売繁盛。夢を叶え、成功し、富と称賛を得る人生」と、「神様の愛を味わいながら生きる人生」と、どちらか選びなさいと言われて、「神の愛を味わう人生」を選ぶでしょうか。
「神様に愛されている」ことがどれほど重要なのか。私はどう思うのか。よく考えながら、マラキ書を読み進めて頂きたいと思います。
最後に、マラキ書の最後の言葉と、今の私たちが覚えるべき神様の愛を確認して終わりにしたいと思います。
マラキ4章5節~6節
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
これが旧約聖書最後の言葉。ご存知の方も多いと思いますが、ここで言われているエリヤとは、バプテスマのヨハネのこと。キリストの先駆け。新時代を告げる使者。このマラキより約四百年後に、この約束が成就します。
救い主到来へと続く、この約束の成就とは何を意味しているのか。マラキ書のテーマに沿っていえば、愛が分からない神の民に、神様は決定的な答えを下さるということ。一人子を与えるほどに、私たちを愛するということ。
新約の神の民である私たち。今やマラキの時代の人々以上に、神様の愛が明確に、決定的に示されています。この一週間、これからの生涯、よくよく神様の愛を味わいながら生きていきたいと思います。
今日の聖句を皆で読みます。
Ⅰヨハネ4章10節
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」