2017年7月30日日曜日

「一書説教 マラキ書1章1節~5節 ~どのように~」


私たちは、世界の造り主である神様を「愛の神」と呼びます。私を愛したもう神。しかし、その神様の愛を、私たちはどれ程考え、意識し、味わっているでしょうか。

 私たちが誰かを愛するという時。その相手の一挙手一投足、一顰一笑に、喜んだり傷ついたりするものです。思いが強ければ強い程、自分の愛を受け取って欲しい、理解して欲しいと願う。自分を常に覚えておいて欲しいと要求します。それにもかかわらず、神様の愛を忘れて過ごす時が多く、神様がおられなくても特に問題ではないかのように振る舞うことが多い私たち。神様の愛に、冷淡、無情な私たち。どれだけ、神様を悲しませる歩みをしてきたのか。

 今一度、今日の礼拝と御言葉を通して、神様の愛を実感出来るように。神様の愛を味わいながら生きることが出来るように願います。

 

 六十六巻からなる聖書。そのうち一つの書を丸ごと扱い説教する一書説教。断続的に取り組み、ついに旧約聖書の終わりとなりました。今日は旧約聖書第三十九の巻、小さな預言書、マラキ書となります。

預言書というのは、多くの場合、神様から神の民に語られる言葉が記されます。「預言」とは、その字の示す通り、神様からの言葉を預かること。預言者の働きは、神の言葉を預かり、それを神の民に伝える。預言書の多くは、預言者を通して神様から語られた言葉の記録です。

しかし、「神様と預言者の対話」、「神様と神の民の対話」自体が預言となる書があり、有名な一つはハバクク書でした。預言者が問い、それに神様が答えて下さる対話を通しての預言。もう一つ有名なのが、このマラキ書です。神様が神の民に語りかけることから始まる対話が、預言の中心となる書。一体どのような対話がなされているのか。

毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 旧約聖書には、マラキ書含め十七の預言書が収められています。その多くは、冒頭にいつの時代、誰が書いたものと記されていますが、いくつかはどの時代なのか、預言者の素性が分からないものがあります。マラキ書は、いつの時代か記されていなく、「マラキ」という名前は分かっても、どのような人なのかよく分からない預言者。

 しかし、記されている内容と文体、用語から、BC400年頃に記されたものと考えられています。律法学者エズラや、総督ネヘミヤの活躍した時代と重なります。バビロン捕囚から帰還し、神殿再建と城壁再建がなされ、環境としては復興が進む状況。しかし信仰面では、神の言葉を侮る民、職務を軽んじる祭司。神の民の信仰は惰性となり、敬虔な生活は失われている状況。そこに遣わされた預言者マラキ。

 その内容は、先ほど確認したように、神様と民の対話が中心の預言となります。この一書説教では、その対話の中でも主な三つのやりとりを確認してマラキ書の概観としたいと思います。

 

 マラキ書1章1節~2節a

宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。『わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。

 

 神様と民の対話。その最初は、神様の「あなたがたを愛している」との声に、「どのように、愛しているというのか。」との問いで始まります。とても興味深く、重要な対話だと思います。神様は何と答えられるのか、想像しながら読みたいところ。

 ところで、神様の「愛している」という声に、「どのように、愛しているのか。」と問いで返しているのは、神様を知らない者たちではありません。神の民が、この問いを発しているのです。恋人同士の会話として、片方が「愛している」と言い、それは分かっているけど、今のあなたの言葉で表現して欲しいので「どのように愛しているのか教えて」と問うている対話ではありません。神の民が、神様の愛を疑い、責めるような問いを投げかけているのです。

 神様はご自身の民を愛している。しかし、神の民には、その愛が分からない。味わっていない。実感していない。という課題があった。

 

 この問いに神様はどのように答えているでしょうか。

 マラキ1章2節~3節

わたしはあなたがたを愛している。』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。』と。『エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。』

 

 注目の神様の答え。それは「エサウを憎み、ヤコブを愛した」という答えです。エサウよりもヤコブを愛したということ。それにしても、「どのように愛されたのか」という問いに対して、これはどういう意味の答えなのでしょうか。

エサウ、ヤコブのことは、詳しくは創世記に記されています。神の民として祝福の約束を受け継ぐのは、兄エサウではなく、弟ヤコブでした。何故、エサウではなく、ヤコブが神の民に選ばれたのか。ヤコブがエサウより特別に優れているということは記されていません。どちらかと言えば、むしろエサウの方が人間的魅力に富んでいる印象があります。ヤコブに特別に愛される理由があるわけではない。ただ、神様がヤコブを愛したいから、愛したということ。条件なし。理由なし。神の民は、神様の選びによって、愛された者たち。

 

「どのように愛されたのか」という問いに対して、「エサウを憎み、ヤコブを愛した」との答え。それは、代価を払ったわけでもなく、条件を満たしているからでもなく、ただ神様の選びによって愛された、ということです。このような神様の愛について、聖書は色々な箇所で記しています。例えば、申命記の表現では、次のようなものです。

 申命記7章7節~8節

主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

 

 無条件に愛されていること。その結果、まさに今神の民であること。それこそが、神様が私たちを愛していること。私たち新約の神の民は、キリストを通して神の民とされました。私たちで言えば、キリストによって救われていること、神の民とされたことに、神様の愛を覚えられるか、問われるところ。

 このような神様の回答を、皆様はどのように受け止めるでしょうか。

 

 確認したい対話二つ目は、神の民が神様を煩わしているというものです。

 マラキ2章17節

あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは煩わしたのか。』『悪を行なう者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか。』とあなたがたは言っているのだ。

 

 正しい者が虐げられ、悪人が栄えているような状況。神様が悪を良しとされているように思われる状況。神様の義についての課題。しかし、これはこの時代だけのものでなく、すでにマラキ以前の多くの預言者が、この課題に向き合っていました。エレミヤやハバククは、強い言葉で義について神様に問いましたが、しかし、神様が悪の味方をしているとは考えませんでした。

ところが、マラキの時代の人々は、悪が栄えている姿を前に、神様は悪を喜ばれているとまで言うようになっていた先に神様の愛を疑った者たちは、神様の義を疑うことになります。

正しく生きる者が馬鹿を見、不正を働く者が栄える。神様の義というのは、一体どのようにこの世界と関係しているのか。皆様の中に、このテーマで悩んだ方はおられるでしょうか。

 

 この問いに対する神様の応答はどのようなものでしょうか。

 マラキ3章1節~2節

『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。』と万軍の主は仰せられる。だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

 

 神様はこの世界に無関心であるわけではない。ましてや、悪の味方であるわけでもない。その義に従って、必ず世界を裁かれる時が来る、という答え。仮に私たちの目に、悪が栄えるように見えることがあっても、それで神様の義がなくなったわけでも、神様が世界を統治されていないわけでもない。

 そのため、神の民は、神様の義を覚えて生きること。正しく生きることに何の意味があるのかと思うような状況があったとしても、それでも正しく生きることを目指すように教えられるのです。

このような神様の回答を、皆様はどのように受け止めるでしょうか。

 

 確認したい対話三つ目は、神の民が、神様の語りかけに応じない姿となります。

 マラキ3章7節

あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。――万軍の主は仰せられる。――しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。

 

 神様の愛を疑う者たち。神様の義を疑う者たち。聖書から離れ、その教えを守らなかった神の民へ、神様は「わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。」と言われます。悔い改めの招き。神の民がどのような状態であろうとも、語りかけ、招き続ける神様。

 ところが、その神様の招きに対して、神の民は「どのようにして、私たちは帰ろうか。」と嘯きます。神のもとに帰るとはどのようなことか。どうしたら帰ることが出来るのか。という問いではなく、帰るつもりはない、悔い改めるつもりはない、という言葉。残念無念の姿。そして、この対話は、民のつぶやきで終わりとなります。

 私たちはいつでも神様のもとへ立ち返ることが出来る。いつでも悔い改めることが出来る。その上で、神様が立ち返るようにと招いているのに、なおも罪の中に留まるとしたら、これは大変なこと。

 この神様と神の民のやりとりを、皆様はどのように受け止めるでしょうか。

 

 マラキ書の神様と神の民の対話の中から、三つの対話を確認しました。教えられるのは、「神様の愛が分からない」という問題が、様々な問題の根につながるということです。神様の愛が分からない者は、神様の義を信じられなくなり、さらには神様の呼びかけに答えなくなるということ。神様の愛を確認しないことが、神様ご自身との交わりから遠のくことにつながるのです。

 神様ご自身との交わりから遠のく姿が、マラキ書にはいくつも出てきました。

 マラキ1章6節b、8節

わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか。』と。・・・あなたがたは、盲の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないのか。足なえや病気のものをささげるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。――万軍の主は仰せられる。――

 

 神の愛が分からない者は、神様を愛することが出来なくなる。祭司が、礼拝を通して、神様を侮るようになる姿。

 

 マラキ3章8節

人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。

 

 神様の義が分からなければ、神のものを盗むことも平気になる姿。さらには、

 

 マラキ3章13節~15節

『あなたがたはわたしにかたくななことを言う。』と主は仰せられる。あなたがたは言う。『私たちはあなたに対して、何を言いましたか。』あなたがたは言う。『神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる。』と。

 

 悪に留まり、罪を悔い改めることがなければ、敬虔に生きることもなくなる姿など。「神の愛が分からない」ことが、神の民にとって致命的な問題であることが、マラキ書全体を通して、よく教えられるのです。

 

 以上、マラキ書でした。「神様に愛されていること」これは、私たちにとって最も重要なこと。生きていく上で最も必要なこと。聖書全体で教えていることですが、私たち自身にどれだけ実感があるでしょうか。神様に愛されていることを味わいながら人生を生きることが最も重要であると頭では分かったとして、心から同意しているでしょうか。「無病息災、家内安全、商売繁盛。夢を叶え、成功し、富と称賛を得る人生」と、「神様の愛を味わいながら生きる人生」と、どちらか選びなさいと言われて、「神の愛を味わう人生」を選ぶでしょうか。

 「神様に愛されている」ことがどれほど重要なのか。私はどう思うのか。よく考えながら、マラキ書を読み進めて頂きたいと思います。

 

 最後に、マラキ書の最後の言葉と、今の私たちが覚えるべき神様の愛を確認して終わりにしたいと思います。

 マラキ4章5節~6節

見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。

 

 これが旧約聖書最後の言葉。ご存知の方も多いと思いますが、ここで言われているエリヤとは、バプテスマのヨハネのこと。キリストの先駆け。新時代を告げる使者。このマラキより約四百年後に、この約束が成就します。

 救い主到来へと続く、この約束の成就とは何を意味しているのか。マラキ書のテーマに沿っていえば、愛が分からない神の民に、神様は決定的な答えを下さるということ。一人子を与えるほどに、私たちを愛するということ。

 新約の神の民である私たち。今やマラキの時代の人々以上に、神様の愛が明確に、決定的に示されています。この一週間、これからの生涯、よくよく神様の愛を味わいながら生きていきたいと思います。

 

 今日の聖句を皆で読みます。

 Ⅰヨハネ4章10節

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

2017年7月23日日曜日

ウェルカム礼拝 詩篇128編1節~4節「家族~良いものorやっかいなもの~」


皆様にとって、家族は良いものでしょうか。それとも、厄介なものでしょうか。「この家族でよかった」と感じること、あるでしょうか。あるいは、この家族と暮らすことが辛くて、厄介と感じる。その様な経験があるでしょうか。

 思春期の真っ只中。私にとって、親の存在は時にうるさく、時に疎ましいものでした。家族とは、厄介なものだったのです。しかし、今実家に帰り年老いた母と接していると、特に四日市に戻る私を、家の外に立って心配そうに見送る母の姿を見ると、心から愛おしさが涌いてきます。家族の絆、家族の良さを感じる瞬間です。

 他方、妻の考え方がどうしても理解できず、ケンカになってしまった時は、神様は何と厄介な存在を与えたことかと思う。しかし、心から自分の様な者を尊敬してくれる妻に接すると、神様の素晴らしい恵みを与えてくださったと感じる。私にとって、いや多くの人にとって、家族とは、時に良いもの、時にやっかいなものなのかもしれません。

今、人生の最後を自宅で迎えることを希望する人が、増えています。高齢者の78%が自宅で最期を迎えたいと願っていると言われます。「病院で最期を」と答えた人も、自宅では家族に迷惑をかけることになるからと考えてのこと。本音を言えば、住み慣れた家で最期を迎えたいのです。狭くても、古くても、設備が整っていなくても家が良い。良い思い出も、辛い思い出もある家で、最期まで過ごしたい。私たちにとって、家は特別な場所です。

 ところで、皆様にとって、どれ程家族は大切なものでしょうか。日本人は家族よりも仕事、家族よりも会社を上に置く傾向が強いと言われます。会社は公、家族は私。仕事優先、時に仕事のために家族を犠牲にすることも良しとされてきました。

 最近は、育メンとも言われる家事や育児に取り組む男性が増えているそうです。社会もその方向性を進めているように思われます。しかし、なかなか労働時間は減らない、たとえ家にいる時間が増えても「男性は外で仕事、。家児と育児は女性の仕事」と言う、夫の意識が変わらなければ、と言う指摘もなされています。

 また、結婚して子供が生まれるまでは、お互いの名前を呼んでいたのに、子どもが生まれた途端、お互いを「パパ、ママ」「お父さん、お母さん」と呼ぶ夫婦が多く、夫婦よりも、親子の関係を重視するのが、日本の家族の特徴とも言われます。

 つまり、一般的な日本人の考え方は、第一に仕事、次に家族。家族でも第一は親子の関係で、次が夫婦の関係と言うことになるでしょうか。勿論、どれもが大切なのですが、果たして、皆様の人生における優先順位は何でしょうか。

 聖書が教える優先順位は、夫婦、親子、仕事ではないかと、私は感じています。神様は、最初の人アダムに子どもではなく妻を与えました。夫アダムと妻エバから子供が生まれました。第一に夫婦、次が親子と言う順番です。また、社会で充実した仕事をするためには、夫婦、親子の関係が土台となります。年齢的に仕事ができなくなっても、夫婦、親子の関係は続くからです。さて、先程読んだ聖書の個所は、家庭の幸いを歌う、家族賛歌です。

 

 128:1~4「幸いなことよ。すべて【主】を恐れ、主の道を歩む者は。あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。【主】を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」

 

 勤勉な夫、家を切り盛りする甲斐甲斐しい妻、オリーブの若木の様に健康な子どもたちが食卓を囲む姿は、理想の家族そのものです。勿論、聖書は外で働くのは男性、女性の勤めは専ら家事と育児と言う風に、男女の役割を固定しているわけではありません。これは、当時の文化の中で幸いな家族の一つの形を描いているもの。大切なのは、彼らが神様を恐れ、お互いに愛し合う関係にあったことです。

 ところで、数か月前。NHKテレビで「今、日本の家族が危ない」と言うタイトルで、二週続けて家族の問題を取り上げていました。第一回は親子の問題、第二回は夫婦の問題です。

 夫婦の問題で取り上げられたのは、夫に対してキレる妻でした。今、日本では年間21万7千組が離婚。その内の7割が妻からの離婚申し立てによるものです。そして、離婚申し立ての理由の第一位は、何だかわかるでしょうか。「夫が自分の気持ちを理解してくれない」です。

 例えば、ある女性は「仕事も育児も全力投球しているつもりだが、いつも中途半端になっていないか、悩んでいる。朝早く送り出し、迎えに行くのは遅い。そんな子どもたちにも申し訳ない。何かあれば迷惑をかける会社にも申し訳ない。夫は、うんともすんとも言わない。たまに、口を開くと、結局お前はどうしたいんだ、俺にどうして欲しいんだと言う始末。でも、欲しいのはアドバイスじゃない。自分の抱える不安やストレスに対して、大変だね。頑張ってくれてありがとう。そういう共感のことばが欲しい」と語っていました。

 「それはこういうことだから、こうすればよい」と結論と具体的対応を示せば、話は終わりと考える男性。それに対して、自分の気持ちを理解し、受け止めてくれる共感のことばを求める女性。このすれ違いが、妻の感情を爆発させると言われます。 

 三浦綾子さんが「愛するとは共感すること」と書いていましたが、まさに、共感力が豊かな女性と共感力に乏しい男性のすれ違いの問題です。私にも心当たりがあります。妻の話を聞いていて、その長さに焦れてしまい、「早く100字以内で結論を言ってくれ」と言ったことが何度かあります。すると、妻は「あなたは、どうして『大変だったね』の一言が言えないの」と返してくる。テレビを見て、すれ違いは我が家だけではない、と少し安心しました。

 また、女性は悲しみ、不安と言ったネガティブな経験を詳しく記憶することができるそうです。それに対して、男性は同じ経験をしても、漠然としたイメージでしか記憶できない。女性から「あんなに苦労したこと、辛かったこと忘れたの?」と言われても、「そんなこともあったなあ」としか言えないので、気持ちの分からない人、鈍感な人と思われてしまうことが多いのだそうです。

確かに、男性には、このような弱点もあります。しかし、男性は多少の悲しみや不安を感じても、それを忍耐して仕事をしたり、物事に挑戦してゆくという働きに長けているとも言われます。こうした違いは、男性と女性の脳の働きから生まれるものだそうです。

 子どもの成長にとって、最高最良の環境は、愛し合う夫と妻。ことばを代えれば、お母さんを思いやるお父さんとお父さんをお母さんの存在と言われます。また、子どもが自立、独立しても、夫婦の関係は続きます。夫婦が、お互いの性格の違い、男女の違いを理解して、相手の心に届くような愛情の伝え方、表し方を考え、実践してゆけたらと思います。

 次は、親子の関係です。昔から、日本では子宝ということばがあるように、子どもを大切にしてきました。「しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから 子にしかめやも」。万葉集にある山上憶良の歌です。この世の金銭、宝石にもまさって、大切な宝は子どもと歌い、人々の共感を誘ってきました。

 しかし、今回家族についての本を読む中で、今日本の親子関係について、多くの本が共通して取り上げているのが、二つの問題でした。ひとつは、思春期の子どもが親の何気ないことばにキレる、あるいは引きこもると言う問題。二つ目は、父親不在と母子密着の問題です。

子どもを大切に思うがゆえに、何故子どもが感情を爆発させるのか理解できず、対応に迷う親。子どもを大切に思いながらも、仕事が忙しく、子供と接する時間を持てないお父さん。それを少しでも補おうと我が子と密着してゆくお母さん。そんな親の姿が見えてきます。

一昔前とは、子供を取り巻く環境も変わりました。テレビやインターネットを通じて押し寄せる情報の洪水。塾通いなどによる忙しさ。核家族、少子化による人間関係の希薄化など。以前なら、親以外にも、祖父母や近所のおじさん、おばさんなど、子どもの逃げ場、話し相手となる大人が周りにいました。でも、今は子どもが一人一人孤立し、弱くなって、様々なストレスを抱えている状況です。そこで、子どもたちがスマホでのコミュニケーションに逃げ込む。それが度を越すと、スマホ依存を引き起こす。親はますます不安になる。そんな状況が浮かび上がってきます。

思春期の脳は、負の感情に激しく反応します。お母さんのちょっとイライラした一言、お父さんのちょっとそっけない態度に過剰反応する。他方、激しい感情にブレーキをかける脳の働きは余り発達していない。そんな特徴があります。不安になる親の、100倍もの不安が、思春期の子どもの心には存在するとも言われます。

しかし、思春期は、最も好奇心や学習能力が高められ、チャレンジ精神が旺盛な時期です。自分とは何か、正義とは何か。愛と何かなど、大切なことを深く考え始める時期でもあります。それがゆえに、親に批判的になることも多いのです。

 そのような時期こそ、お父さんとお母さんが協力して、対応する必要があると思います。時には、お父さんが壁となって、子どもに何が正しく、何が間違っているのかを伝えることも必要です。時には、お母さんが、子どもの不安な心を受けとめ、子どもの思いを聞いてあげることも必要でしょう。勿論、お母さんが壁となることも、お父さんが聞き役になるのも良いと思います。夫婦それぞれの性格、賜物を発揮すること、両親が同じ目線で、接することが肝心ではないでしょうか。

誰もが多かれ少なかれ、経験する思春期。何とも厄介な思春期があるのは、人間だけなのだそうです。けれども、この厄介な時期もやがて、子どもが自立、独立して、親から離れてゆくことをもって、終わりを告げます。子育ての目標は、子どもの自立。これも、親として確認しておきたいことです。

大阪にある淀川キリスト教病院の院長をしている柏木先生が、面白いことを書いています。柏木先生が反抗期の子どもの頃、ある日お母さんが、へその緒を持ってきたそうです。その時初めてへその緒を見た柏木先生は、「お母さんとお前は、こういうもので結ばれていたんだよ」と言われ、意味が理解できませんでした。しかし、後になって、「お母さんとお前は、こんなに強い絆で結ばれているんだから、反抗してはダメだよ。親から離れたらダメだよ」。お母さんの言いたいことはこういうことか、と分かったそうです。

 対照的に、アメリカでは、子どもが初めて自分で歩いた「小さな一足の靴」を記念として、親が持っていると言う話を紹介しています。一足の靴は、「これは、お前が初めて自分の足で歩いた靴だよ」と言う意味で、子どもが成長して親を頼ってきた時、小さな靴を見せるのだそうです。「お前はすでに親から離れて歩いて行っている。だから、そんなことで親のところへ戻ってきてどうするの」と言うメッセージです。

 子どもをできるだけ親のもとで守ろうとする家族。子どもの独立をうながす家族。子どもの独立に寂しさを覚える親。子どもの独立に喜びを感じる親。それぞれに意味があり、良さがあります。一概に、どちらが良いとも悪いとも言えないでしょう。

但し、聖書にはこの様な教えがあります。                                     

 

 創世記1:24「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」

 

 子どもの自立をもって終了する親の子育て。しかし、それで親子の関係が切れるわけではありません。親と子が、お互いを一人の男性、一人の女性として尊び、親しみ、支え合う。そんな、対等な関係、友情の関係に変わってゆくのです。

 何をしても可愛らしい赤ん坊の時代。日々成長する姿が嬉しい少年時代。厄介な対応を通して、親も成長する思春期。子どもが自立した後の友情。神様は、親子の関係に、段階に応じた恵み、喜びを与えて下さることを感じます。

 最後にお勧めしたいのは、私たちに家族を与えて下さった神様を畏れ、信頼することです。聖書によれば、神様を信頼しなくなった人間の性質は自己中心。愛することにおいても、私たちは自己中心の愛し方しかできなくなっています。そして、最も自己中心の性質が表れるのが家族と言われます。他の人に対してなら、絶対に口にしないような言葉を、家族に対しては口にしてしまう。家族のために言う思いが強すぎて、いつの間にか自分の考え方を押しつける。親に依存する子ども、子どもに依存する親。自己中心の性質、自己中心の愛が、私たちの家族に様々な問題を生み出しているのです。

 しかし、神様を信頼する者に、神様は、家族をも一人の人格として接する愛を与えて下さいました。家族が、お互いを一人の人格として愛するとはどういうことでしょうか。

 哲学者のショーペンハウエルに、二匹のヤマアラシのたとえ話があります。冬の寒い夜、二匹のヤマアラシが野原で会いました。風が吹き、寒くて仕方がありません。そこで、お互いの体温で温め合おうと、二匹が近寄ったところ、近寄りすぎて、自分たちの体の針で互いを傷つけ合い、とても痛かったと言います。これではいけないと、離れると、二匹の間を風が通り抜け、また寒いのです。そこで、二匹は少しずつ近寄り、互いの針で互いが傷つかないように、しかも、お互いの体温を感じられる距離を保ちながら、夜が明けるのを待ったと言うお話です。

 夫と妻が、「夫は夫、妻は妻で良い。自分は自分で良い」と感じられる関係。親と子が、「親は親で良い。自分は自分で良い」と感じている関係。それでいながら、夫と妻、親と子がお互いを大切な存在として思いやる関係。密着し過ぎず、離れすぎない。適度な距離のある関係が、私たちの目指すべき関係ではないかと思います。

 最後に、三つのことばをお勧めします。家族の関係を良くする黄金のことばとも言われます。ありがとうと言う感謝のことば、ご苦労様と言うねぎらいのことば、ごめんなさいと言う謝罪のことばです。これらは、自分中心の性質からは生まれてきません。相手を一人の人格と認め、大切な存在と思う時、心に涌いてくることばです。家族だからこそ、意識して使いたいことばです。皆様の家族が、神様に祝福されることを願い、お祈りしたいと思います。

2017年7月16日日曜日

ローマ人への手紙5章1節~5節「信仰者の勇気(2)待ち望む勇気(2)~~


「信頼するとは何か。」と聞かれたら、皆様どのように答えるでしょうか。以外と難しい質問です。日々の生活の中で実際に、私たちは様々なものを信頼して生きているのですが、「信頼するとは何か」との問いに、正確に答えるのは難しいものです。

 「信頼するとは何か。どのようなことか。」この理解の助けとなるのに、綱渡りの名人の話というものがあります。(私の好きなたとえ話なので、これまでに聞いたことがあるという方もいらっしゃると思います。)

「ある村に綱渡りの名人がいました。ある日、その名人が背中に籠を背負い、六十キロほどの石を詰め、綱を渡ります。村人は、あの名人ならば落ちることはないと考えている。石を背負いつつ、綱渡りを見事に成功させた名人が、籠から石を取り除け、『今度は、誰かこの籠に入って一緒に綱渡りをしましょう。』と言います。ここで村人の反応は分かれます。ある人たちは籠に入ることが出来ると思い、ある人たちはとてもじゃないけれども籠には入れないと思う。」

 この話で分かるのは、信頼することと、知っていることの違いです。籠に入れるという人は、この名人を信頼している人。とてもじゃないけれども入れないというのは、自分の村に綱渡りの名人がいることは知っているけど、自分の命を預ける程、信頼はしていない人、ということになります。

 このように考えると、信頼するとは、自分が損害を受けても良い覚悟をすること。もし相手が信頼に応えられない場合、自分に害があっても良いとすること、と言えます。信頼することには勇気が必要なのです。

 

 ところで、聖書は繰り返し神様を信頼するように教えていました。多くの例を挙げることが出来ますが、例えば

 詩篇62篇8節

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」

 

 果たして私たちは、どのような時にも神様を信頼することが出来ているでしょうか。全存在をかけて、神様を信頼する歩みを送っているでしょうか。

 信仰生活を送る中で、順風満帆だと感じている時、神様を信頼するというのは、比較的容易です。問題となるのは、逆境の時。困難、苦難の最中に追いやられた時。そこで、神様を信頼出来るかどうか。

普段、信仰のない生活を送っている人でも、困難、苦難に出会うと、神に頼るということがあります。困った時の神頼み。ところが、信仰を持っている私たちが、苦しみの中で、神様を疑い、神様を信頼しない歩みとなることがあります。残念ながら、逆境の中で、それでも神様を信頼する勇気を持てない時がある。いかがでしょうか。どのような時にも、神様を信頼する歩み、どのような時にも自分の心を神の御前に注ぎだすような信仰生活を送りたいと思うでしょうか。

 今日は、困難、苦難、患難の中でも、神様を信頼すること、待ち望む勇気を持つことの意味を、聖書から確認したいと思います。

 

 開きますのは、パウロという人が記したローマ人への手紙。

パウロはその手紙の冒頭から、世界の造り主である神様を無視して生きることが、人間にとってどれだけ不幸なことなのか。特に罪ある者には、神の怒りが下る、裁きが下ることを確認しました。「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒り」(118)がある。「様々な悪を行うことは、死罪に当たるという神の定め」(132)がある。「悔い改めのない心の者は、神の裁きを前に御怒りを自分のために積み上げている」(25)など、強く口調で、罪という課題の危険性を訴えました。

また、その裁きから逃れる道、罪が赦されるのは、正しい行いをすることではない、自分で自分を変えることではない。キリスト・イエスを、罪からの救い主と信じること。信じるということのみが、罪の問題を解決する道であると続きました。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(323-24)という極めて有名な言葉も、このローマ書の前半で記されたものでした。罪という問題、死という問題、自分ではどうにも対処出来ないこの問題は、キリストを信じる信仰によってのみ解決する。信仰義認です。

 

 このように、罪の悲惨と、そこから抜け出す道を示したパウロが、続いて、キリストを信じる者に与えられる恵みは、ただ罪が赦される、義と認められるだけではない。さらに大きな恵みがあると続くのが今日の箇所、五章となります。

 

 ローマ5章1節~2節

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

 

キリストを信じた私たちは、罪が赦されただけでなく、神との平和、神様との良い関係を持つ者とされたこと。裁きを逃れただけでなく、「神の栄光」と言われるやがて頂く素晴らしいものがあり、それを思うだけで大いに喜ぶことが出来る。短い言葉ですが、重要なことが凝縮されて語られています。

 キリストを信じる者は、義とされるだけではない。神の子とされ、聖とされる。神様から離れて生きていたものが、神様との親しい関係に入れられた。「死」に捕らわれていた者が、新しいいのち、永遠のいのちを頂き、やがて死なない体で復活し、神の栄光に満ちた世界に入れられる。キリストを信じることで、とてつもない大きな恵みを頂いている。それが嬉しくてしょうがない、大いに喜んでいると言います。

 いかがでしょうか。キリストを信じる私たちは、これを記したパウロと同じ恵みを頂いている者。パウロがここで記しているような、感動、喜びを、どれだけ味わって信仰生活を送ってきたでしょうか。

 

 それはそれとしまして、パウロはさらに、キリストを信じる者に与えられる恵みを語ります。今日、特に注目したい箇所です。

 ローマ5章3節~5節

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 これもまた、とても有名な言葉、多くの人に愛され、暗唱された聖句です。練られた品性とは、優れた人格という意味。希望とは、生きる力と言えば良いでしょうか。患難が忍耐を、忍耐が優れた人格を、優れた人格が生きる力を生み出す。患難には、私たちを成長させる重要な意味があることを教える言葉。

 

 ところで、苦労や困難が、人を成長させるというのは、一般的に良く知られたことです。「可愛い子には旅をさせよ」とか「獅子の子落とし」とか。楽な道と大変な道があるなら、敢えて大変な道を選ぶという人もいます。

健康でいること、富を得ること、合格、昇進が、人を高慢、腐敗、堕落、不敬虔にすることがあり、病気、貧しさ、落第や左遷が、人間らしさを取り戻させ、敬虔を回復することがある。患難、苦難が、結果的には自分にとって有益であったと思うことは、しばしばあります。いかがでしょうか。今まで、患難を味わうことが自分にとって有益だと思うことはあったでしょうか。

 

 患難が人を成長させることがあるというのは、一般的に言えること。それでは、パウロはここで一般的な格言にあたることを、教えているのでしょうか。そうではありません。話の流れは、キリストを信じる者に与えられる恵みとは何かということですから、一般的な格言ではないということになります。

 それでは、ここでパウロが言おうとしていることは何なのか。それは、信仰者ならではの患難の向き合い方があり、信仰者でしか味わえない成長の仕方があるということです。

あるいは、通常であれば有益な結果につながると思えない患難。解決が見えないもの。乗り越えられるとは思えないもの。長期に渡り、あまりに過酷なもの。愛する人を失うこと。生きがいを失うこと。長年の取り組みが無駄になること。期待し続けたことが実現しなかったこと。予想していなかった大病や怪我。とても耐えられない。そのような患難でも、喜べる道があるということ。おかしな表現になりますが、キリストを信じる者は、喜びえない患難さえも、喜ぶことが出来るということ言っているのです。一体どうしたら良いのか。何が鍵となるのか。

 

もう一度、今日の箇所、特に最後の部分に注目します。ローマ5章3節~5節

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 

 聖書は患難に向き合う際、ただ我慢するように、ただ耐えるようにとは教えていませんでした。患難の中にあって、神の愛を味わうこと。神の愛が自分の心に注がれていることを確認するように。聖書的な忍耐とは、苦しみを只々我慢することではなく、苦しみの中で神様の愛を確認することでした。

 これが、パウロがここで伝えようとした、キリストを信じる者に与えられる恵みの中心です。キリストを信じる者とは、神の愛を確認することが出来るようになった者。信仰生活とは、人生の中で神の愛を確認すること。患難の中で、それがどれ程苦しい患難だとしても、その中で私たちは神様の愛を確認することが出来る。神様を信頼する生き方の一つは、どのような状況の中でも、神様の愛が私たちの心に注がれていることを味わうことだと、今日確認するのです。

 

 また、この言葉を反対からとらえると、神様の愛を味わうことなく患難に向き合う場合、聖書が教える練られた品性や希望を生み出すことにはつながらないのです。一般的な意味で、苦労した人が人格的に成熟するということはおこっても、ここで教えられているような練られた品性、希望にはつながらない。残念というか、もったいないというか。

 いかがでしょうか。神様を信頼する歩みを送りたいと思うでしょうか。これまでの人生の中で、患難に向き合う際、神様の愛を確認するということに、どれだけ取り組んできたでしょうか。

 

(自分自身の経験を説教で紹介するのは、相応しくない場合があります。自分の信仰深さをひけらかすことにならないように考えながら、私自身の経験をお伝えしたいと思いますが)過ぎし一週間の中で、今日の説教の準備をしながら、この御言葉、この約束に大変助けられました。

この一週間の中で、特に大変だと思ったのは、アルツハイマーの母がトイレに行くと言い、夜中に何度も起こされた場面。疲労と睡眠不足で、頭痛と吐き気がする中、十五分前にトイレに行った母に、またトイレに行きたいと起こされる。色々なことが心に浮かびました。この状況が続く中で、私自身、母を敬い、仕えることを継続出来るだろうか。いつか母を疎ましく思う時がこないだろうか。この体調で、朝から教会の仕事を滞りなく行うことが出来るだろうか。これから寝ても、またすぐに起こされるのではないだろうか。不安や恐れ、心配が心に浮かびましたが、まさに今こそ、私の心に注がれている神様の愛を確認したら良いのだと思い出しました。

神様は、イエスキリストを私の身代わりにするほど、私を愛していること。私の感じている不安や恐れ、心配もよくご存知でいて下さること。私以上に、私を愛し、そして教会を愛している方が、ともにいて下さること。聖書で教えられている、基本的なこと。ごく当たり前のこと。しかし、確かに私の心に注がれている神様の愛を確認した時、不安や心配していたことがどうでもよくなりました。病の中で、混乱している母のことも、神様はとても愛していることに今一度気づきました。体は疲れていて、体調が悪いのは変わらない。母の病が治ったわけでもない。それでも、生きる力が沸いてきました。その時、聖書は本当に凄いと感じましたし、キリストを信じる信仰が与えられていて本当に良かったと強く思いました。

(ちなみに、その時の思いが、ずっと続いたわけではありません。別な場面で、不安や恐れを感じ、その都度、神様の愛を確認する歩みを送って一週間を過ごしました。)

 

 以上、神様を信頼する勇気について。特に逆境の中で、神様を信頼することについて、確認しました。

 私たちの人生には、大なり小なり、患難がつきもの。誰の目にも明らかな患難もあれば、その人にしか分からない患難もあります。絶望的な状況に追いやられることもあります。私たちは、どのように患難に向き合えば良いのか。どのように神様を信頼したら良いのか。

 絶望して蹲らないように。不平不満をこぼして終わりとしないように。神様への不信を募らせ、別なものを信頼しようとしないように。

 患難の中にあって、私たちの心に注がれた神様の愛を確認すること。この神様の愛を確認出来る、味わうことが出来ることこそ、キリストを信じる者に与えられた最大の特権の一つでした。また、神様の愛を確認しつつ患難に向き合うことが、聖書的な忍耐の仕方であり、その忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性は希望を生み出す。この約束を胸に、私たち一同で、勇気をもって神様を信頼する歩みを送りたいと思います。

 

今日の聖句を皆で読みたいと思います。

 詩篇119篇71節

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」