2017年10月29日日曜日

ヨハネの手紙第一1章9節、10節「罪を言い表す」


自分の信仰生活を振り返り、悔い改めるべきことはないか、改革すべきことはないか。考え、取り組んだことはあるでしょうか。

 個人の信仰でも、神の民・教会(集団)の信仰でも、浮き沈みがあります。成熟し整うこともあれば、衰退し形骸化することもある。聖書に記された信仰者の姿は、完全無欠なものはなく、皆が皆、失敗を繰り返すものです。旧約の神の民も、新約の教会も、繰り返し改革される必要がありました。

信仰者の歩みは浮き沈みがある。そうだとすれば、信仰者は自分自身の歩み、教会の歩みについて吟味し、悔い改めるべきことはないか、改革すべきことはないか、絶えず確認する必要があります。今一度お聞きします。皆様は、自分の信仰生活を省みること、教会の歩みについて吟味することを、どれだけ真剣に取り組んでいるでしょうか。

 信仰生活を省みることはいつでも重要なことですが、今日は特に宗教改革を記念する聖日。(宗教改革記念日は、十月三十一日。その直前の日曜日が、宗教改革を記念する聖日となります。)それも今年は宗教改革五百年を記念する年。この時期、様々なイベントが行われ、新改訳聖書も新しい版が出版されました。私たちはこの記念の時に、礼拝を通して、自分自身の信仰生活、四日市キリスト教会の歩みについて、悔い改めるべきことはないか、改革すべきことはないか。考えたいと思います。

 

 約二千年前。主イエスが活動を開始する直前に、救い主を迎えるよう訴える者がいました。救い主の前に送ると約束されていた預言者、バプテスマのヨハネです。キリストの先駆け、露払いのヨハネ。このヨハネは、どのようにして人々に、救い主を迎える備えをさせたのでしょうか。

 マタイ3章2節

悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。

 

 救い主を迎える備え。それは人々に、救いに対する飢え渇きを覚えさせること。神から離れたままであることの危険性に無自覚になっている者たちに、自分には救い主が必要であることを思い起こさせること。人々に自分の悪のほど、罪深さを覚えさせ、このままではいけないと自覚せしめること。それによって、救い主を待望せしめる。罪の中にいながら、安穏としている者たちに、冷水をぶちかけ目覚めさせる。これが、先駆者ヨハネの使命であり、取り組んだことでした。「悔い改め」の一つの意味は、自分には救い主が必要であると確認することです。

 

 さらにバプテスマのヨハネは、悔い改めを心の中だけのこととはしませんでした。心を神様に向けるだけでなく、生活も変えるように。悔い改めにふさわしい実を結ぶようにと教えていました。

 ルカ3章10節~14節

群衆はヨハネに尋ねた。『それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。』彼は答えて言った。『下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。』取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。『先生。私たちはどうすればよいのでしょう。』ヨハネは彼らに言った。『決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。』兵士たちも、彼に尋ねて言った。『私たちはどうすればよいのでしょうか。』ヨハネは言った。『だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。』

 

 群衆に、取税人に、兵士に。それぞれ非常に具体的に悔い改めに基づく行いを教えます。悔い改めとは心だけのことではない、言葉だけのことでもない。実際の生活の中で、行いとして、実を結ぶべきものだったのです。想像してみて下さい。もし今の自分の目の前に、バプテスマのヨハネが現れたとしたら、自分の生活をどのように変えるべきだと語られるのか。悔い改めの一つの側面は、心だけのことではない、実際の生活を変えるものでした。

 

 人々に、救い主を迎える準備をさせる働きをしたヨハネが悔い改めを説いていた。悔い改めて、救い主を待望するように。それでは、救い主ご自身はどのようなことを教えられるのか。なんと、その最初の言葉はヨハネと同じ。「悔い改めなさい」というものでした。

 マタイ4章17節

この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』

 

 ヨハネが悔い改めを説いたのは、救い主が必要であると自覚させるため。それでは、救い主自身が「悔い改めなさい」と説いたのは、どのような意味があるのか。ヨハネと同じ意図なのか。それとは別な意図があってのことなのか。

 このイエス様が「悔い改めなさい」と言われたことの意味を、どのように受けとめるのか。これが、十六世に起った宗教改革の一つの契機となりました。

 

 カトリック教会では、ラテン語訳の聖書を使用し、イエス様が言われた「悔い改めなさい。」という言葉は、「ペニテンティアしなさい。」となっていました。この「ペニテンティア」という言葉は、カトリック教会の中では特別な意味のある言葉で、「懺悔の秘蹟」を意味する言葉となります。

(カトリック教会では、イエス様によって制定され、教会に委ねられた恵みの儀式が七つあるとし、それを「秘蹟」と呼びます。私たちは、それを二つだけ。洗礼式と聖餐式と考え、「礼典」と呼びます。現在、カトリック教会では赦しの秘蹟という名称になっていますが、懺悔の秘蹟、告解の秘蹟という呼び名もあります。)

 つまり、当時のカトリック教会では、ラテン語聖書に基づいて、主イエスが言われた「悔い改めよ」という言葉を、「懺悔の秘蹟をなせ」という意味。教会に行き、罪を告白し、司祭から赦しの宣言を受けるという儀式をしなさい、という意味だと教えていました。

 

 当時、一般のカトリックの司祭は、原典のヘブル語、ギリシャ語で聖書を読むことは許されていなく、それは大学の教授になってはじめて、許されること。このような状況で、司祭であり大学の教授にもなったマルティン・ルターが登場します。ルターは、ギリシャ語で聖書を読むと、ラテン語訳聖書とは意味が異なるに気付きます。イエス様が言われていることは、懺悔の秘蹟をしなさいとい意味ではない。生活のあらゆる面で、神様以外に向けられていた心を、神様に向けること。方向転換することだと考えるのです。

 

 現在のキリスト教、そして今の私たちの信仰生活に多大な影響を与えた「宗教改革」。一般的には、1517年、10月31日、マルティン・ルターが、ヴィンテンベルグ城教会の門の扉に「九十五箇条の提題」を張り出したことから始まったと言われます。

 その第一条、第二条は次のような言葉です。

第一条

「私たちの主であり師であるイエス・キリストが「悔い改めよ」と言われたとき、彼は信者の全生活が悔い改めであることを望まれたのである。」

 

 第二条

「(悔い改めよという)この言葉が、秘蹟としての懺悔についてのものであると解することは出来ない。」

 

 ルターは、当時の教会のあり方について、様々な側面から糾弾し、宗教改革を行います。イエス様が言われた「悔い改めなさい」という言葉をどのように理解すれば良いのか。これだけを問題にしたのではないのですが、九十五箇条の提題の最初に掲げたのは、この問題。悔い改めよという言葉をどのように理解するのかが、宗教改革の一つの契機になっていることがよく分かります。

 イエス様が言われた「悔い改めなさい。」という言葉。ルターは、「信者の全生活が悔い改めであることを望まれた」と理解しましたが、それでは信者の全生活が悔い改めであるとは、具体的にどのようなこと、どのような生き方となるのでしょうか。皆様は自分の全生活が悔い改めであるとは、どういう意味だと考えるでしょうか。

 

 全生活が悔い改めであるとは、どのような生き方なのか。今日はヨハネの記した手紙を中心に考えたいと思います。

 Ⅰヨハネ1章9節~10節

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。   

 

 主イエスの先駆けとしてバプテスマのヨハネがいましたが、この手紙を記したのは十二弟子の一人のヨハネ。キリストの死と復活、召天後、七十年程生きて、福音書、手紙、黙示録を書きました。バプテスマのヨハネが、キリストの先駆けならば、こちらは後詰のヨハネ。先払いのヨハネに対して、後払いのヨハネ。

 ここでヨハネは、悔い改めの中でも、特に罪を告白すること、罪を言い表すことについて重要なことを教えています。私たちが、罪を言い表すならば、罪は赦され、きよめられるという約束。

 ところで、この言い表すという言葉は、基準に当てはまるかどうか判断するという意味があります。つまり、ここで言われている罪を言い表すとは、自分の感覚として、罪があるかないかを考えるのではない。聖書という基準に沿って、自分には罪があるかどうか考えるということです。

 

 私が高校生の時のこと。友人に、キリスト教の説明している中で、聖書は全ての人が罪人であると教えているという話になった時。友人に自分のことを罪人だと思うかと聞いたところ、罪人だと思うという返答でした。(その返答を聞いて、イエス様を紹介しやすいかもしれないと思いました。ところが)どうして罪人だと思うのか聞いたら、自分は肉なり魚なり、他の生き物を食べて生きている。多くの生き物を食べて生きてきた自分は、罪人だと思うという答え。(その答えを聞いて、イエス様を紹介する前に、伝えないといけないことが多くある気がするけれども、どのように伝えたら良いのか悩むことになりました。)

 「自分を罪人だと思う。」これはとても聖書的な告白に聞こえますが、しかし、なぜそのように思うのか。聖書の教えていないことで、自分を罪人だと思うとしても、それは正しい告白とは言えないのです。罪を言い表す、罪を告白するとは、自分の判断基準でどう思うのかではなく、聖書に照らして罪があるか、ないか。あるとしたら、どのような罪があるのか、告白するということでした。

 

 ところで聖書は、キリストを信じることで罪を赦されると教えていました。どの罪が赦されるのでしょうか。全ての罪が赦されます。キリストを信じる前に犯した罪も、その時に犯している罪も、これから犯す罪も。過去も、現在も、未来も、キリストを信じることで全ての罪が赦されます。自分が把握している罪も、自分で知らずに犯した罪も、告白した罪も、告白出来なかった罪も、全ての罪が赦される。キリストを信じることで、あらゆる罪が赦されるというのが、私たちの信じている福音です。

 キリストを信じる者は、完全に罪赦された者。キリストを信じた者を、罪に定めることは誰にも出来ないのです。それでは何故、キリストを信じる者にも、罪を言い表すこと、罪を悔い改めることが勧められているのでしょうか。既に罪赦されているのに、何故、罪を告白する必要があるのでしょうか。

 

 もう一度、ヨハネの言葉を確認します。

 Ⅰヨハネ1章9節~10節

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

ヨハネは、聖書の基準に沿って、自分の罪を言い表す時に、どのような恵みが与えられるのか。「罪は赦され」、「悪からきよめられる」という恵みが与えられると言います。

既に完全に罪赦されている者に、罪が赦される恵みが与えられる。これは、どういう意味でしょうか。キリストを信じた者が、新たに罪を犯した場合、告白しないと、新たな罪は赦されないということでしょうか。そうではありません。(カトリック教会は、洗礼後に犯した罪が赦されるためには、懺悔の秘蹟が必要と教えていますが、私たちは、聖書はそのように教えていないと考えています。)そうではなく、罪を告白することで、罪が赦されている恵みを再確認するということです。

キリストを信じる者。既に完全に罪赦された者が、どうせ罪赦されているのだからと、自分の罪に対して無感覚になるようにとは教えられていません。むしろ、罪赦されているけれども、罪を犯す度に言い表すことを通して、この罪も赦されていたと再確認すること。繰り返し、罪の赦しの恵みを味わうようにと教えられているのです。

 

そして、もう一つ。罪を言い表す時に、「悪からきよめられる」恵みも与えられると言います。罪赦された者として、二度と罪を犯したくないと思っても、それが出来ない私たち。その悪から抜け出すために、私たちが出来ることは、自分を打ち叩いて頑張るのではなく、罪を言い表すことでした。罪の赦しだけでなく、悪からきよめられるという点でも、神様の助けを願うということ。あのバプテスマのヨハネが教えていた、悔い改めに相応しい実を結ぶために、私たちが真っ先に取り組むべきは、罪を言い表すことでした。

ここで重要となるのは、自分は本当に悪からきよめられたいと思うのか、ということです。自分でも気が付きやすい表面的な悪は、きよめられたいと願いやすい。しかし、心の奥底にある罪、悪について、本当にきよめられたいと願っているのか。自分の欲望、怒りや憎しみ、罪だと分かっていても、手放せない行いや思い。そこからきよめられたいと、本気で願うのか。神様が悪からきよめると約束しているのに、それでも、罪を告白しないとしたら、罪を告白しないということ自体も大きな問題となります。どのような罪、悪でも、きよめられることを願いつつ、言い表すことが出来るようにと互いに祈り合いたいと思います。

 

 今日は宗教改革を記念する聖日。それも十六世紀の宗教改革から数えて五百回目の記念の時。イエス・キリストが語られた「悔い改める」ということの意味について、考えてきました。

 宗教改革を起こす一つの契機となった「悔い改める」ことの理解について、ルターは、「(主イエスは)信者の全生活が悔い改めであることを望まれた」とまとめましたが、それでは、全生活が悔い改めであるとは、どのような生き方なのか。

 今日の聖書の言葉に沿って言えば、全生活が悔い改めであるとは、日々、罪を言い表す信仰生活を送るということです。聖書に照らして、自分の罪を言い表すことを繰り返す人生。そのことを通して、赦されている恵みを確認し続けること。悪からきよめられ、ますますキリストに似る者とされていくこと。そのような信仰生活を、イエス様は私たちに求めておられる。

 この記念の聖日に、今一度、聖書を読むこと。そして聖書に照らして、自分の信仰生活、教会の歩みを吟味すること。罪を言い表すことに取り組む決心を、皆でしていきたいと思います。

2017年10月22日日曜日

ガラテヤ(1)「唯一の神」ガラテヤ1:1~10


時々耐えられないほど悲しい連絡が来ます。東京にいた時の教会のメンバーである一人の女性から四月にこういうメールが私の携帯に届きました。「ジョーさん、ユウスケは昨夜帰ってこなかった。今日も、何回も電話かけても出ないのよ」という連絡ですユウスケと言うのは女性のご主人です。

数日後、私達の最も恐れていたことが現実のものとなりました。ユウスケさんは自分の家族を見捨てたということが明確になりました。奥さんのヨシ子さんと3人のお子さんは言うまでもな大きなショックを受けて、苦しみ悶えて、その瞬間に彼女たちの人生が180度変わりました。

一世紀にガラテヤの諸教会で同じようなことが起きました。その教会で起きたのは家族を見捨てることではなく、キリスト教の根本的な教えを見捨てる問題でした。この教えを見捨てることは、イエス様自身を見捨てることでした

現代の私達も、家族のこと、奥さんのこと、旦那さんのこと見捨てないかもしれないけれども、私達みんな本当の福音を見捨てて、他の福音に逃げることあると思います。偽りの福音を信じれば、罪を起こすことになり、人生に悩むことになるでしょう。

もしそうならば、ガラテヤの諸教会の人たちはなぜ愛するイエス様の福音を捨て、異なる福音に移って行ったのでしょうか。


まず、ガラテヤ教会の状態をもう少し詳しく説明します。使徒のパウロは、主な伝道旅行を三回行いました。最初の旅ガラテヤという地域には五つの教会を開拓しました。この地域はどこにあるかというと、現代言えばトルコの南の方にあります。パウロはその諸教会を巡回伝道しながら、教会のメンバーを守ったり育たりするために手紙を送りました。ガラテヤ人への手紙やピリピ人への手紙などがこういう手紙です。

旧約聖書の時代、神の民はユダヤ人だったんです。しかし、はじめから神様の恵み深い計画、ユダヤ人を通して、全世界の全ての部族が祝福されることでした(創世記 12:3)。

この素晴らしい計画は、イエス様の登場と教えにしたがってはっきり理解できます。パウロによると、ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません、主イエスの御名を呼び求めるものはみな救われるのです(ローマ 10:12-13)。つまり、神の民になるのに必要なのは、ユダヤ教徒になることではなく、イエス様信じることだけです。当時、ガラテヤの教会員はほぼ異邦人であり、ユダヤ教の背景がなくても、パウロが教えてくれた通り、キストを信じればクリスチャンになることができました

しかし、ガラテヤの諸教会では何が起こったかというと、パウロが去った後、ユダヤ教徒の偽教師がこの教会に忍び込んでいて、クリスチャンになる前にユダヤ教徒になるべきだと教えました。例えば、割礼や豚などの汚れた動物を食べないといういう律法を守らなければならないということです。彼らは、割礼を中心にしていたので、「割礼派」と呼ばれました。パウロが驚いたことに、ガラテヤの教会員はこの偽教師の教え信じてしまいました。

果たして、ガラテヤの教会員は「割礼派」にかき乱されて、パウロの教えを捨て、異なる福音を信じてしまいました。要するに、問題なのは、ガラテヤの教会員周りの人たちに合わせてしまうことでした。

この「見捨てる」(6節)という言葉は、新約聖書の元々の言語のギリシャ語でどういう意味かというと「裏切り者」とか「反逆者」という意味です。なので、異なる福音を信じることは本当の福音を裏切ると言う意味だと言えます。これが、パウロはガラテヤ人に対して訴えていることです。他人を喜ばせようと努めて、敵の生活信仰に合わせてしまいました。

周りの人に合わせてしまうことは異なる福音に移って行く理由の一つではないかと思います。イエス様より、パウロの教えより、周りの人に合わせることを大切にしていれば、真理の福音を自然に見捨てるものです。現代の私達も同じことをする誘惑があります。この間、学生時代の同級生で同じサークルに入っていたエノ君と電話で話しました。7年ぶりだったんです。喜んで生活の近況を分かち合っているうちに、エノ君は同じサークルの友達がひどい病気であることを知らせてくれました。私はちょうどその瞬間に祈った方が良いと考えました。神様による希望を述べ伝えるチャンスだと考えたのです。しかし、何も言わずに私は話を続けました。エノ君に神様のことを話すと、私達の関係が悪くなってしまうことを恐れてしまったのです。

パウロの行為は全く違いました。強い敵の「割礼派」向かい、彼らに合わせようとはしませんでした。かえて、彼らを非難して、神様を喜ばせようとしました(10節)。これがキリストのしもべとしての正しい姿勢なのです。パウロは全然折れませんでした。なぜかというと、福音の力にかかわるからです。すなわち、神様の目からすると、誰かが割礼や、旧約聖書の律法や、自分の良い行いなどによって救いをもらえるなら、恵みによる真理の福音が正しくないという状況になってしまうと考えたからです

ですから、この手紙の冒頭ではパウロの経歴を伝えることが重要でした。パウロは蘇られたイエス・キリスト自身から直接この福音もこの使命も与えられました(1節)。天の父なる神様はイエス・キリストを死者の中からよみがえらせました。四節では「今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました」とあります。ですので、パウロは今の時代から救い出されたことに確信があって今の悪の時代の人々に合わせることはできないと理解していました

こうして、クリスチャンはどういう者かというと、律法完全に従うものではなく、失敗しないものでなく、罪を絶対犯さない者でなく、毎週礼拝に出席する者でもありません。もちろん、クリスチャンはこういうことをやっていますが、神の民である権利を持てるのは自分良い行いをするかどうかにかかわらず、ただイエス様に救い出されたからです。

なぜ愛するイエス様の福音を見捨てるかというと、たまにクリスチャンとしてこの時代につまはじきされるより、迎合すれば楽だからです。しかしイエス様がこの悪の時代から私達クリスチャンを救い出してくださったので、周りに迎合しないようにいきましょう。


 しかも、もう一つ異なる福音に移って行く誘惑があります。この点は非常に気を配らないといけません。このガラテヤ教会の話は現代の私達の人生に全然関係なさそうに見えるかもしれませんしかし、非常に大切な問題です。この戦いの中には、私達と神様の関係の根本がかかわっています。普段手紙を書く際には冒頭パウロは宛先の教会の人たちを褒めたり、励ましたりして、「聖徒たち」と呼ぶことも珍しくありません。しかし、この手紙では聖徒と呼ばないで、代わりに強く責めています。その理由はパウロの教えを見捨てたからです。

 信仰の上に割礼や律法を付け加えることは大したことではないという方もいるかもしれませんが、使徒パウロによると、違う宗教に従うことに相当します。福音の中身が全く変わってしまいます。なぜならば、この異なる福音を信じれば、神様の働きに頼らなくて自分自身の良い行いに頼る宗教になるからです。8節、9節によると、こいう宗教に相応しいのは神樣の祝福ではなくて、神様の呪いです。パウロは「割礼派」の教えがどんなにひどいものかを強調しています。自分の行いに頼る信仰生活が大変なものになると注意しているのです。

 現社会は世界の様々な宗教は山のようなものだという考え方が主流ではないかと思います。神様は山の頂上にあり、世界の色々な宗教は同じ頂上へ辿り着くための道です。ある宗教は別の宗教道は違うけれど、目標は一緒という見方はどこの国に行っても人気があります。しかし、パウロの言葉正しければ、そういう哲学本当のはずはありません。神様の呪いへ導く道もあるし、神様の祝福への道もあります。この箇所におけるパウロの厳しい警告によると、自分の良い行いに頼る宗教は永遠の死に導かれるというものです。真理の福音違います。真理の福音はこうです。イエス様は罪を知らないのに、私達の代わりに神に罪とされました。私たちは恵みのゆえに、 信仰によって救われたのです。 それは、 自分自身から出たことではなく、 神からの賜物です。5節によると、これは世々限りない神の栄光のためであります。私達は自分の良い行いに頼ると自分の栄光のほうを褒めたたえてしまいます。目標も道も違います。

 クリスチャンであっても、この誘惑のワナに陥ることがあります。もし、他人に対して自分がどういう態度をとることが多いのかを調べると、この誘惑の強さが分かるようになると思います。

私の人生から一つの例を捧げます。私と妻の夢はこれからずっと日本で教会で働くことです。日本で生活できるならもちろん私達も子供も日本語の能力が必要ですよね。2015年日本に着いてから数ヶ月長女は日本語できるようになるはいくつかの問題がありました。長女だけではなく、家族みんなが悩んでいました。告白するのは恥ずかしいですが、私の態度は愛と忍耐ではなく、主に怒りといらいらでした。は非常に強いストレスを感じていて、家族に対して愛をもって接しなかった理由は、私たちの関係の根本は行いであると感じていたからです。自分の他人に対しての態度を振り返ると、自分は神様とどういうつながりがあるかがよくわかります表に出てきた罪は怒りだったんですが、根っこの罪は自慢でした。もしイエス様の贖いよる無条件の愛を本当にわかっていれば、私たちは他人にも同じように接することができるようになります。私たちは神様の恵みに頼らず、自分の良い行いに頼ると二つの谷のどちらかに陥ることになります。成功すれば自慢の谷に陥って、失敗すれば絶望の谷に、という傾向を避けられないと思います。このワナを逃れる方法は一つしかありません。パウロの福音を信じて、神様の恵みに信頼することです。

 私たち異なる福音に移って行く理由の一つは、罪人である私たちは毎日良い行いのほうに信頼する誘惑があるからです。ですが、私たちクリスチャン正しいとされるのは、信仰によるのです。ガラテヤ章11節にはこう書いてあります「義人は信仰によって生きる」。ガラテヤ教会の「割礼派」のように、自分の良い行いに頼ってはならないでしょう。ガラテヤ2章16節には 「人は律法の行いによっては義と認められず、 ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められ」とあります。


 ガラテヤ教会の人々のように私たちは周りの人たちに合わせてしまったり、または神様の恵みの代わりに自分の良い行いに頼ったりして、異なる福音に移って行く危険があります。様々な誘惑があって、様々な偽りの福音があるけれど、真理の福音は一つしかありません。福音の漢字を見ると(元々のギリシャ語も一緒で)、意味は「いい音・いい知らせ」です。このいい知らせは何かというと、罪人である私たちを救い出すことは神様の喜びであり、罪人でなければ、神様の恵みは必要ないということです。自分の力で自分自身を清めて行く人は、自分を誇るか、人を裁くようになってしまいます。これが偽りの福音なんです。

 私たちは弱い者で、クリスチャンであることを周りに内緒にしたり、自分の家族や教会生活を犠牲にして、業績に専念したりすることもあります。たまに、教会の人、隣人、親戚失敗すると、自分のほうが絶対良いと心の中で自己評価 することもあります。正直にいうと努力しても、こういう行動はやめられないのですイエス様は違います。主イエスは強い、主イエスは心優しく、 へりくだっているからイエス様の良い行いに信頼すれば神様義と認められます。イエス様のみに信頼するとき、神様の恵み、神様の平安が体験できます。これが私たちの希望、唯一の福音です。

2017年10月15日日曜日

「一書説教 マルコの福音書~仕える王~」


「イエス」を誰とするのか。これは人間にとって最も重要な問いと言えます。自分とは全く関係のない人か。古の他国で活躍した社会運動家か。優れた道徳、倫理をもたらした教師か。数々の病を癒した優れた医者か。死人をよみがえらせたとなると預言者とみるか。それとも、私の救い主と信じるのか。

「イエス」を誰とするのか。(ある意味では恐ろしいことですが)聖書によれば、この問いに対する答えが、その人の永遠の定めを決めることになるのです。一人の人生に、それも永遠の人生に決定的な影響があることとして、「イエス」を誰とするのか、という問いがある。そうだとすれば、私たちはどれだけ真剣にイエスとは誰なのかを探るために聖書を読んできたのか。この問いに対する答えを持たない人に、どれだけ真剣に聖書を読むことを勧めてきたのか。その真剣さが問われます。

 

創世記から読み進めてきた一書説教の歩み、前回から遂に新約聖書に入りました。新約聖書の冒頭四つ、その名も「福音書」「良き知らせの書」にて、イエスの生涯を確認する段になりました。今一度、私にとってイエスとは誰なのか、よく考える時となるように。私の救い主と信じるとしても、どのようなお方なのか真剣に探る時となるようにと願います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 主イエスの生涯を記す四つの福音書。その二番手を担うのはマルコの福音書です。(書かれた順番としては、マルコの福音書が最も早く書かれたと考える神学者が多いですが。)全十六章、最小の福音書となります。

ところで、もし自分が福音書記者を選ぶことが出来るとしたら、皆様はどのような人を選ぶでしょうか。イエス様の生涯を記すのに、相応しいと思うのはどのような人でしょうか。家族か、十二弟子のように身近にいた人物か。あるいは余程、文学的才能がある人物か。実際、四つの福音書の著者のうち、マタイとヨハネは十二弟子。ルカは、優れた歴史家であり、卓越した作家でした。(またイエス様の肉の兄弟、ヤコブとユダはそれぞれ手紙を記し、新約聖書に収録されています。)ところがマルコは、十二弟子でもなく、その文体は朴訥としたもの。何故、マルコが福音書記者となっているのか。マルコとはどのような人物だったでしょうか。

 

マルコと言えば、一番有名なエピソードは不名誉なものです。パウロがバルナバと伝道旅行に行く際、助手としてマルコを連れて行きました。(使徒13章5節)ところが、伝道旅行を途中で抜けてしまいます。(使徒13章13節)パウロは、この離脱が余程癪に障ったようで、後にマルコの処遇でバルナバと衝突することになります。(使徒15章36節~39節)あのパウロとバルナバを喧嘩別れとなる原因が、マルコでした。

 そのマルコ、具体的なことは分かりませんが、後にパウロとの関係は良いものとなっていて、パウロは絶筆の手紙で、マルコのことを「私の務めのために役に立つ」人物と評するようになります。(Ⅱテモテ4章11節)

 さらに、ペテロもその手紙の中でマルコのことを「私の子」と言います。(Ⅰペテロ5章13節)肉親ということではなく、信仰による子、ペテロの働きを継ぐような者という意味です。

 若くして教会の働きに加わった人物。不名誉な失敗もありましたが、それで教会から離れて終わるのではなく、パウロともペテロとも親しい関係を持つことが許された人物。このマルコが第二福音書の著者となります。

 

四つの福音書、それぞれに特徴があり、福音書を読み比べて、それぞれの特徴を味わいたいと思いますが、マルコの福音書の大きな特徴の一つは「簡潔」であること。同じ場面が記されている他の福音書と比較すると、多くの場合、マルコの記事は簡単にまとめられています。一つ一つの出来事が短くまとめられているため、次々に場面転換する印象があります。密度の濃いマルコの福音書。

それぞれの福音書の「一章」を比較しますと、マタイは、系図とキリストの誕生の記録。ルカは、キリスト誕生前の記録。ヨハネは、詩的表現によるキリスト誕生と、バプテスマのヨハネの記録。それに対してマルコは、バプテスマのヨハネのこと、荒野の誘惑、弟子を集めたこと。会堂で教え、悪霊を追い出し、病気を癒したことが記されます。マルコは簡潔で展開が速いのです。

 

 このマルコの福音書をどのようにまとめたら良いのか。色々なまとめ方があると思いますが、今日は「イエス様は、どのようにご自身のことを教えられたのか」という視点でまとめていきたいと思います。(そのことを通して、私たちはイエスを誰だとするのか、考えたいと思います。)神の子であり、約束の救い主であるイエス様は、ご自身をどのような者として示されたのか。人々は、イエス様をどのように受けとめたのか。中でも特に弟子たちは、イエス様をどのように理解していったのか。皆で確認したいと思います。

 

 イエス様はご自身をどのように示されたのか。神の一人子が人となられた最大の目的は、約束の救い主として罪人を救うため。そのため、いち早くご自身が、約束の救い主であることを教えるのではないかと思うところ。

 しかし、興味深いと言うか、不思議と言うか、マルコの福音書に記されたイエス様は、なかなかご自身が約束の救い主であることを明言しません。是非とも、注意深く、意識して読んで頂きたいのですが、前半に記されたイエス様の姿は奇跡が中心。多くの奇跡が記録され、その中で含みをもたせる表現は出てくるのですが、約束の救い主であると明言されることはないのです。更にいうと、ご自身明言されないだけでなく、他の人もイエス様について語ることを禁じる場面が度々出てきます。何故なのかと不思議に感じるところ。

 

 ある場面では、ご自身のことを多くの人に知らせようとする積極的なイエス様の姿が出てきます。

 マルコ1章38節~39節

イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。

 

 しかし、そのすぐ後に記されているのは、ツァラアトという皮膚病を癒した男に対して、自分のことを話してはならないと戒められる姿となる。

 マルコ1章43節~44節

そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。『気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。』

 

 積極的に町々を巡り、会堂で教え、奇跡を行う姿が記される中、もう片一方に、どうも消極的、ご自身のことを秘密にしようとされる姿が出てきます。一体イエス様は、ご自身のことを教えたいと思われているのか、秘密にしようとされているのか。どちらなのだろうと、混乱してきます。

 このようなイエス様を、人々はどのように受けとめたでしょうか。マルコの記述によると、奇跡を目の当たりにした者たちは多くの場合、驚愕しつつも、好意的に受け止めています。いくつも例を挙げられますが、たとえば中風の人を癒した時、人々の受け止め方は次のようなものでした。

 マルコ2章12節

それでみなの者がすっかり驚いて、『こういうことは、かつて見たことがない。』と言って神をあがめた。

 

 多くの場合、奇跡を見た者たちは、好意的に受け止めている。しかし、イエス様は場所を移動しつつ奇跡を行うため、イエスに対して好意的であった者たちでも、イエスが誰なのか、理解が深まることはなかったのです。継続して、その活動を見ることが出来たのは弟子たち。イエス様がご自身のことを明言されなくても、少しずつ、イエス様についての理解が深まっていきます。

 こうして、マルコはその前半で、イエス様の奇跡と、少しずつイエス様について理解を深める弟子たちの姿を記します。その後で、ここから、ご自身が約束の救い主であることの意味を明確に語るようになる場面が出てきます。マルコの福音書の分水嶺となる箇所。どの箇所だと思うでしょうか。

 

 マルコ8章27節~33節

それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。』するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』

 

 ピリポ・カイザリヤでのイエスと弟子たちの重要な問答の場面。「イエスを誰とするか。」という問いを、イエス様ご自身が弟子たちに投げかける。ここでペテロがこれぞ、という答えを出します。「あなたは、キリストです。」「あなたこそ、約束の救い主である。」と。

 ここまで、繰り返し奇跡を行いながらも、ご自身が約束の救い主であることは明言されなかったイエス様。何故なのか。その理由は明確には記されていないのですが、弟子が「あなたは、キリストです。」と告白するまで、待ち続けていた印象があります。この告白に至るように、これまでの多くの奇跡は、弟子たちの教育の場にもなっていたと読めるのです。

 

 「あなたは、キリストです。」と弟子たちが告白出来るようになることを待っておられた。そうだとすれば、イエス様はこの告白をどれ程喜ばれたかと思います。この告白を契機に、イエス様はご自身が約束の救い主であることの意味を語ります。約束の救い主であるというのは、奇跡を行い、人々の注目を集めるだけの存在ではない。約束の救い主であるとは、多くの苦しみを受け、死に、よみがえる者だと明言された場面。

 このイエス様の宣言を聞いて、ペテロはイエス様をいさめ始めました。ペテロの考える救い主のあり方と、イエス様が語られた救い主のあり方に違いがあったのでしょう。死ぬなんて、殺されるなんて、そんなことはない。ペテロに悪意があったとは思えません。イエス様を愛していたからこその発言とも思います。しかし、約束の救い主であるということの意味は理解出来ていなかったのです。このペテロに対して、イエス様は「下がれ、サタン」と非常に強い言葉で叱責し、救い主であることの意味を明確にされました。

そしてこれ以降、繰り返し、約束の救い主であることの意味を弟子たちに語るイエス様の姿が出てきます。前半を経て、イエス様が約束の救い主であることが明確になり、後半にて、その約束の救い主がどのようなお方なのか、明確になる。そして最後に、語られた通りにイエス様は死なれ、蘇られた記録となります。

 

 以上、「イエス様は、どのようにご自身のことを教えられたのか」という視点で、マルコの福音書を概観しました。今一度簡単にまとめます。

前半、イエス様は多くの奇跡をもってご自身を示されました。イエス様の姿から、徐々に理解が深まる弟子たち。多くの奇跡が記されますが、前半の最後の奇跡は盲目の男の目を開くというものでした。その後で、ペテロの告白となります。おそらくこの配置は意図的なもの。このマルコの記述の仕方に、盲目の男の癒しと、霊的に盲目であった弟子たちの目が開かれていくというつながりを思わせます。それはそれとして、前半はイエス様が約束の救い主であると告白するまでの歩みでした。

分岐点となるペテロの告白以降、イエス様はご自身が約束の救い主であるというだけでなく、約束の救い主とはどのような者なのか。罪人のために死に、復活することを繰り返し教えられるようになります。後半は、約束の救い主がどのような者なのか、明確にする記録となります。その最後は、ペテロの告白時に、イエス様が宣言された通りのことがイエス様自身に起こります。そして「イエス様は、どのようにご自身のことを教えられたのか」という視点でここまで読み進めますと、最後に飛び切りの告白が記されています。(マルコ15章39節)


 

 最後に、マルコの後半。約束の救い主はどのような救い主なのか語られるところから、一つのことを確認して終わりにしたいと思います。

 マルコ10章42節~45節

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』

 

 エルサレムに向かう途上。今一度、ご自身が約束の救い主として死ぬことを宣言されたイエス様。その時、弟子たちが話していたことは、誰が偉いのかというものでした。残念無念。弟子たちの不甲斐なさが如実に記録される場面。

 ここでイエス様は、ご自身を「仕える者」と言われました。それも、贖いの代価として命を与えるほどに仕える者である。神の子、約束の救い主、王の王である方が、ご自身のことを徹底的に仕える者なのだ、と言われる。

 

 考えてみますと、マルコの福音書に記されたイエス様の姿は、まさに仕える王でした。困窮している者たちに仕え、無理解の弟子たちに仕え、遂には罪人のために命を投げ出して仕えるイエス様。今回、一書説教の準備をして、私が受け取ったマルコの示したイエス像の中心は、この仕える王というものでした。

 マルコの福音書を読み通して、主イエスが約束の救い主であること。約束の救い主は、私たちの罪の身代わりに死に、復活されたことを確認したいと思いますが、それはつまり、徹底的に仕える方であると受け止めたいと思います。

 キリストの弟子、キリストを信じる者とは、このイエス様に仕えてもらった者。私は、王の王に仕えてもらった者。そして、その私たちに仕えて下さった王が、「みなに仕える者になりなさい。」「みなのしもべになりなさい。」と言われる。このイエス様の命令に従順に従う者でありたいと思います。

 

 

2017年10月8日日曜日

マタイの福音書7章24節~29節「山上の説教(43)~岩の上に自分の家を~」


以前聞いた落語に、こんなお話がありました。ある時、町内の大店の主人たちの寄り合いがあり茶のみ話となる。それがいつの間にか、自分の家の庭自慢となりました。

 「私の庭には先祖伝来の梅の老木がありましてな。」「いやいや、我が家には、見事な花を咲かせる枝垂桜がございます。」「いやいや、家の庭には紅葉が…。」と、庭自慢が続くと、それにつられたのか、ひとりの主人が負けじと口を開いたのです。

 「皆様のお庭には、梅だの、桜だのと花が生命の名木がご自慢のようですが、何といっても、木の命は常磐木。常に緑を絶やすことのない常磐木ではないでしょうか。中でも第一の常盤木は松の木。我が家の庭には春夏秋冬、一年中緑を絶やすことのない、大きな松の木が庭の真ん中にございます」。 

それが、あんまり見事な自慢だったので、主人たちは、「それでは、その松のお庭を見に行こうではありませんか」と、なってしまいます。実は、これが大ぼらで、困ったのは大ぼらをふいた主人自身。家に帰った主人は顔を青くして、事の次第を番頭に話しました。

それを聞いた番頭は、しばらくの間思案していましたが、何故かにっこり。「ご主人様。ご心配なく。おまかせください。きっと明日には、この庭に見事な松の木をはやして見せましょう。」と答えます。

 「しかし、今日、明日の話だぞ。大きな松など育つものか。…」という主人の声を聞きながら、番頭は空模様を眺めると、「ご主人様。明日ですね。明後日以後では困りますが、明日ならば好都合」と言いました。そして、翌日。予定通り訪れた大店の主人たちは見事な松の木に驚いて、帰りました。

 おかげで、主人も命拾い。めでたし、めでたしという話ですが、それにしても、一夜にして、松の木が生えてくるとはどういう訳か。もうおわかりでしょう。番頭は近くの山から、店の者を使って、一番見事な枝ぶりの松の木を斬り倒して運び入れ、庭に突きさしたのです。

 これなら、一夜でできる。斬ってきて、突き立てただけ。それも、一日だけというのがみそでした。長くなったら根がないから、枯れて倒れてしまうからです。見事、番頭の機転は一家を救ったのです。それはそれとして、番頭は自慢高慢の若主人を戒めました。

  「一言申し上げます。この急場は何とか凌げたものの、もとよりこれは一時凌ぎということでございます。相手が世間知らずの主人たちだからよかったものの、これが専門家でしたら、どうなっていたことでしょう。天候も夕方で雨が降りでもしたら、松は倒れたことでしょう。以後、お気をつけくださいますように。」案の定、夕方大雨となり、風が吹いて、松の木は倒れてしまった、と言うお話です。

 急場は凌げても、化けの皮ははがれる。一時のメンツは保てても、メッキははげる。土台の無さは暴露してしまいます。土台の有り無し。根の有り無しは、雨や風によって、明らかになってしまうのです。

 土台のない仮ものの家か、土台のしっかりとした本物の家か。砂の上に乗っけただけの家か、それとも岩に土台を据えつけた家か。それは、雨と風ではっきりと分かってしまう。もともと、大工さんをしていたイエス様は、ここに建物の例をあげられたのです。

 

 7:2427「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 

 これが、山上の説教の結び。ビシリときいたしめくくりです。私たちは、マタイの福音書の第5章から7章で、所謂山上の説教を聞いてきました。それはイエス様の説教の中でもっとも有名なもの。よく知られた名言名句の宝庫でもありました。

 神以外頼る者のない貧しい者こそ幸いです、罪を悲しむ人こそ、義のために迫害されている人こそ幸いですと言う、この世の教える幸福とは、180度違う幸福論。さらには、敵を愛せよとか、のろう者を祝福せよと言う、いまだかって誰も語れなかった神聖な教え。そして、自分の眼の前には丸太ん棒をつけていながら、他人の目の中のチリを云々できますか、責めることができますかと言う痛烈な教え。私たちは、そんな一言々々に感心し、満足して、聞いてきました。

 しかし、今、それだけで終ってしまおうとする者は、ここでストップをかけられます。「わたしの教えを聞いても実践しない人は、砂の上に家を建てる愚かな人。雨が降って、洪水が押し寄せ、風が吹いて打ち付けると、倒れてしまう」と、風に倒れ、雨に流される家のような人生にならぬよう、と釘を刺されました。ただ聞いて感心したり、満足したりという感情だけで、手足を動かして実践しない者は、「砂の上の家のよう」と戒められたのです。

それでは、イエス様が勧める賢い人の賢さ、戒められている愚かな人の愚かさとは、どのようなものでしょうか。同じ神を信じ、同じ山上の説教を聞きながら、なぜ二人が建てた家、二人が歩む人生は、大きく違うのでしょうか。

ここで、注目したいのは、イエス様が私たちの信仰の歩みを、家を建てることにたとえている点です。信仰の歩みは家を建てることに似ている、と言うことでしょう。

昔も今も、家を建てることは人生の一大事。じっくりと腰を据えて取り組んでゆかねばならない大仕事です。一定の手順を踏まなければなりませんし、時間もかかります。一晩で松を庭にさすと言うようなせっかちさ、手抜き工事は禁物でした。

まずは、しっかりとした地盤の土地を見つけること、土台を深く掘ること、その後、柱を立て、壁を塗ってと言う具合に、おろそかにできない順番と言うものがあります。

ルカの福音書には、賢い人がこのようにしたとあります。

 

ルカ648「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。…」

 

地面を深く掘り下げた、つまりしっかりとした土台を築くために、固い岩の上から地面を掘り下げる労苦を惜しまなかったのが、賢い人です。それに比べると、愚かな人は、岩の土地を探す手間も、地面を深く掘り下げる労苦も惜しんで、体裁が良いだけの家を建て、それで良しとしました。

愚かな人は、信仰の歩みにおいてせっかちで、目に見える成果をすぐに欲しがる人、そのために、じっくりと取り組むべきことに取り組まない人と言えるでしょうか。

現代人の病の一つは、能率効率病と言われます。できる限り短時間で成果を上げることが良いこととされる社会です。それ自体は意味のあることとしても、あまりにも能率効率にとらわれ、じっくり物事に取り組んで、結果を期待して待つと言う生き方が苦手とも言われます。

しかし、私たちの信仰の歩みは、能率主義効率主義では測れません。たとえ、すぐに目に見える結果成果が出なくても、じっくり取り組むべきことがあるのです。聖書を読むこと、祈ること、神様の愛を受け取る時間をとること。実践すること。恐らく、皆様もこれは重要と考えながらも、すぐにしなくても良いと判断して、先延ばしにしていることがあるのではないでしょうか。

確かに、聖書を読まなくても生活に困らないし、祈らなくても病気になるわけではありません。実践してすぐに目に見える成果があがることばかりではないでしょう。しかし、こうした土台作りを怠ること、それが砂の上に家を建てる人だと、イエス様は言っておられるのです。

そんな、私たちを励ましてくれる詩篇のことばがあります。

 

詩篇1:2,3「まことに、その人は【主】のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

 

主の教えを喜びとし、昼も夜もそれを口ずさむ人が、水路のそばに植わった木にたとえられています。「口ずさむ」ということばは、「読む、歌う、覚える、思い巡らす」。そんな意味の広がりがあります。すぐに芽が出なくても、なかなか成長しなくてもあせらない。神様が実りをもたらしてくださることを期待して、日々み言葉を聞き、読み、思い巡らし、実践してゆく。

イエス様が勧める賢い人とは、信仰の土台作りに、じっくり、焦らず取り組む人、取り組み続ける人であると教えられます。

また、愚かな人は、物事をよく考えない人、頑固な人と思えます。この人は、何故、我が家が、大水に流される危険を考えなかったのでしょう。風で倒れるかもしれないと考えなかったのでしょう。もしかすると、考えたのかもしれませんが、深く考えることはなかったのでしょう。それに、その人の周りには、注意する人も心配する人もいたはずです。それなのに、なぜ他人の意見や心配に耳を傾けなかったのでしょうか。

聖書は、私たちに考えること、特に自分の課題について振り返ることを勧めていました。

 

箴言1215「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」

 

自分が良かれと思ってなした助言が、相手に受け入れられず反発された時、皆様はどう感じるでしょうか。自分がなした親切が、相手に拒まれた時、どう考えるでしょうか。反発した相手が悪い。拒んだ相手が問題だ。これが、自分を正しいと思う人の反応です。

しかし、神様が求める人は、言ったことは正しかったとしても、言い方に相手に対する配慮が足らなかったのではないかと、自分を省みる人です。親切の押しつけだったかもしれない。今度は相手が望んでいることをしてあげよう。そう自分を修正する人なのです。

また、知恵のある人は忠告を受け入れる、ともあります。神様から聖書を通して与えられる忠告もあるでしょうし、周りの人からの忠告もあるでしょう。いずれにしても、神様の教え、人の意見に耳を傾ける謙虚さが、賢い人の特徴と教えられます。

山上の説教にも、私たちの心を刺すことば、耳に痛いことばがたくさんありました。しかし、どんなに耳に痛くても、私たちは日々これらのことばを目の前において、取り組んでゆく。今自分にとって、どうすることが山上の説教に従うことなのかを考え、自分の言動を修正してゆく。その様な歩みを、イエス様は賢いと呼び、勧めているのではないでしょうか。

ある校長先生からお聞きした話です。高校生のバイブルキャンプでのことです。その校長先生は、一人の高校生のつきそいで参加されていましたが。いよいよキャンプも終わりという言うとき、どうしても話をしたくなり、こんな証をしたそうです。

「私はつきそいでしたが、ここのキャンプの生活をしているうち、キリスト教こそ本当の教育をしているのだ、と知って感動しています。というのは、キャンプ場の靴箱の上に千円札が一枚たたんでおいてありました。誰かが忘れたか、落としたものでしょう。それが四日間そのまま手つかずだったのです。私の勤めている学校なら、すぐ様なくなっていたでしょう。それが四日間、誰も手をつけなかった。これだ。こういう事が当たり前になるように教育しなければ。私もクリスチャンになって、もう一度自分の教育を考え直します。」と。

 それを聞いていたクリスチャンたちは「なんだ、そんなことが」とキョトンとしています。そんなことあたり前じゃないかと、という顔をしている。私には、そのキョトンとしているクリスチャンたちのたのもしさが印象的でした。一人一人の心が生まれかわることでした。」そんな、証をしてくださったのです。

 盗むなかれ。聖書の教えを当たり前のように守り、生活している高校生の姿が、ひとりの校長先生の心をとらえ、自らクリスチャンとなって、教育を考え直すと言わしめた。

 いかに、社会教育、学校教育を口にしても、自分の欠点一つ矯正することができない者に真実の教育はできない。学校の改革と言う前に子供の教育を。子どもの教育の前に、聖書による自分自身の教育、改革をです。そのように話してくれた、先生の顔が今でも忘れられません。

 こうして、締めくくりを迎えた山上の説教。これを聞き終えた人々は、イエス様を単なる宗教の教師ではなく、神のことばを語る神ご自身と感じ、驚きに打たれました。

 

7:28,29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」

 

最後に、山上の説教の結びを読み終えて、私たち一つのことを確認しておきたいと思います。それは、山上の説教を実践する者に与えられる祝福です。

今日の個所で、イエス様が私たちに約束したのは、試練や困難のない、平穏無事な人生ではありません。試練や困難の中に置かれても、神様に固く守られ、豊かな実を結ぶ人生です。

健康な時も病の時も、富める時も乏しい時も、苦しみの時も喜びの時も、私の最大の願いは、聖書の示された神様の御心に従うこと。幼子も、少年も、青年、壮年、老年も、皆が神様の御心に従うというその一点で、ひとつになる。そんな私たちの教会でありたいと思うのです。今日の聖句です。

 

詩篇1191416「私は、あなたのさとしの道を、どんな宝よりも、楽しんでいます。私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。 私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」